2013年8月24日土曜日

群書治要

 元和二年(一六一六)正月

 家康は、崇伝と道春を呼び「群書治要」の
版行を命じた。
 「群書治要」は明の古書で、唐代の魏徴(ぎ
ちよう)らが太宗の勅命によって、古代から
晋代にいたる書物の中から、政治の参考にな
る文章や資料を抜き出して編纂したもので、
五十巻にもなる。この書物は「貞観政要」と
並ぶ帝王学の書といわれ、禁中並公家諸法度
にも「群書治要を踊習するように」と記され
たほどのものだ。しかし、この頃には三巻が
散逸して、四十七巻になっていた。
 家康は、群書治要を公家や僧侶らに配り、
法度にあるとおり、学問に励むように促そう
と考えていた。
 先に刷られた大蔵一覧が、全部で十一冊(こ
の時刷ったのは百二十五部)だから、その作
業が困難になることは容易に想像できた。
 崇伝と道春は、すぐに京都所司代の板倉勝
重に大蔵一覧を刷った時と同じように、版木
衆の校合、字彫、植手、字木切らの職人を手
配するよう手紙を書いた。

 翌々日

 家康は、駿河と遠江の国境近くの藤枝田中
で鷹狩を楽しんでいた時に、発病し倒れた。
 処置が早く投薬で一命はとりとめ、五日間
留まって駿府城に戻り、そのまま病床につい
た。
 知らせを聞いた秀忠は、二月一日に江戸を
発ち、二日には駿府城に到着して、家康の看
病にあたった。
 病状が落ち着くと家康は、崇伝を病床に呼
んだ。
「崇伝、群書治要はどうなっておる」
「はっ、京都所司代の板倉勝重殿に職人の手
配を頼みましたが、校合をする職人がいない
とのことにございます」
「ならば、京都五山の僧を、一山から二人ず
つ呼んであたらせよ」
「ははっ」
「よいか頼んだぞ」
「はい。すぐにとりかかります」
 崇伝から話を聞いた道春は、駿府城の三の
丸で作業の準備をする合間に、散逸していた
三巻を捜し求めた。
 しばらくして、京から職人と僧侶が到着し
て、二月二十三日から散逸した三巻は見つか
らないまま作業が開始された。
 病や薬に詳しい家康は、腹部にしこりがあ
るのを「寸白の虫」が寄生したと診断し、自
ら薬草を調合した「万病円」を服用していた。
しかし、いっこうに回復する兆しがなかった。
それでも、侍医の勧める煎じ薬は拒否した。
 困った秀忠は、先の大坂の合戦で、常に家
康の側に侍していた医者で僧侶の片山宗哲に
医者の調合した薬を飲むよう説得を頼んだ。
しかし、家康はこれに激怒し、宗哲は処罰さ
れて、さらに病の回復を困難にした。
 死を覚悟した家康は、本多正純と天海、そ
れに崇伝を呼んだ。
「正気のうちに皆に申しておく。わしが死ん
だら、遺骸は久能山へ葬り、葬礼は増上寺で
行え。位牌は大樹寺に立て、一周忌が過ぎた
ら、崇伝の金地院と日光へ小堂を建てて勧請
してくれ」
 三人は了解した。
 次に家康は、堀直寄と土井利勝を呼んで、
騒乱が起きないように厳重な警備を命じた。
 秀忠と、集まって来ていた家康の子、尾張
の義直、紀伊の頼宣、水戸の頼房にもそれぞ
れに遺言を残した。
 秀忠は、藁をもつかむ思いで、京から呼ん
だ僧侶の梵舜に御祓いをさせた。
 そして、天海も祈祷を続けた。

 四月十一日

 家康は、道春を病床に呼んだ。
「道春、そなたに任せておる書庫の書物を、
尾張、紀伊に五、水戸に三の割合で分配し、
残りから貴重な書物を選び、少し江戸に移し
てほしい」
「はっ」
「ところで、群書治要の進み具合はどうじゃ」
「はい、順調に作業は進んでおりますが、散
逸した三巻は見つかりませんでした」
「そうか、まあよい。後のことは頼んだぞ」
「ははっ」
 道春は一礼をしてさがった。

 四月十七日

 家康の容態が急変し、波乱の生涯を静かに
終えた。
 その夜中、本多正純、土井利勝、天海、崇
伝などの限られた者だけで葬送が行われ、密
かに、駿府の南東にある久能山の霊廟に葬ら
れた。
 道春は、家康の死を知らされると、十九日
に群書治要の版行作業を中断し、久能山に登っ
て拝礼した。
 その後、再開した群書治要の版行作業は、
五月下旬に終り、それと並行して家康の遺言
のとおり、尾張の義直、紀伊の頼宣、水戸の
頼房に、駿河文庫の約千部九千八百冊にもお
よぶ膨大な書物を分配して、残りから貴重な
書物を選び江戸に送った。
 終わった時には、すでに十一月になってい
た。
 道春は一旦、京の自宅に戻ることにした。