2013年8月25日日曜日

神号論争

 京の自宅では、四歳になった道春の長男、
叔勝が、この年の十月に産まれたばかりの次
男に、母親の亀を独り占めにされて不満顔で
いた。
 そこに道春が帰って来た。
 叔勝はすぐに駆け寄り、道春に抱きついた。
「父上、お帰りなさい、まし」
 笑顔の道春は、叔勝の目線に腰をおろした。
「帰ったぞ叔勝。そなたは元気であったか」
「はい。父上、字を教えてください」
「おお、教えてやろう。じゃが、その前にそ
なたの弟にも会わねばな」
「父上もですか。もう」
「叔勝は不満か。そなたはもう兄になったの
だ。わしの代わりにこの家を守っていかねば
ならん。そなたを父は頼りにしておるのだ。
機嫌をなおしてくれぬか」
「はぁい」
 そこに、赤子を抱きかかえた亀が現れた。
「旦那様、帰っておられたのですか」
「ああ、叔勝に足止めされておった」
「まあ」
「違います。父上にお話を聞いていただいた
のです」
「そうじゃ、そうじゃ。さあ、家に上がらせ
てくれ」
 道春は、叔勝から開放されて家に入った。
 すぐに食事をして落ち着くと、側で赤子の
世話をして幸せそうな亀を見てつぶやいた。
「その子の名を長吉にしようと思う。長命の
長に吉運の吉じゃ」
「長吉、よい名ですね」
「そうか。よし決めた」
「旦那様、これからどうなるのですか」
 亀は、家康が死んで道春の仕事がどうなる
のか気になっていた。
 亀が心配しているのと同じように道春にも
不安があった。
「少しは暇になろうが、あまり変わることは
ない。上様には信澄がついておる。儒学者と
しては、わしよりも弟の方が上だ。上様とも
気が合うようだ。じゃが、弟は身分をわきま
えぬところがあって、時々、上様のお話を笑っ
て聴き、怒らせるそうだ。他の者なら切腹さ
せられるかもしれんことを平気でやる。それ
でもお咎めがないところをみると、よほど信
頼されておるのだろう。しかし、度が過ぎぬ
とよいが」
「旦那様もそんな、切腹させられるような危
険なお仕事をされていたのですか」
「いやいや。大御所様はそんなことはされぬ。
上様は、亡き大御所様の跡を継ぐため、力ん
でおられるのだ。弟からの知らせでは、大御
所様が亡くなったすぐに、崇伝殿と天海殿が
大御所様の神号のことで言い争いをしたり、
松平忠輝殿が改易されたりしたそうだ」

 道春が家康の遺言のとおり、駿河文庫の書
物を分配していた頃、幕府では、家康を神と
して祀る準備がすすめられていた。
 民衆は、幕府が豊臣秀吉を豊国大明神とし
て祀っていた京・豊国神社の取り壊しをした
ことで、精神的支柱を失っていた。それを引
き継ぐ神として、家康を「明神」として祀る
ことを正当化する神の易姓革命を考えていた
のだ。ところが、これに天海が異論を唱えだ
した。
「上様、これでは秀吉の二の舞になりますぞ」
 秀忠は、家康同様に怖い天海の言葉に、弱
り顔で言った。
「しかし、父上を神とするにはこれしかある
まい」
「いえ、ございます。『権現』とするのです。
大日如来が神となって現れたのが、帝の祖先
である天照大神。これが山王権現として祀ら
れておるのです。そこで、乱世を憂いた大日
如来が再び大御所様となって現れ、『厭離穢
土、欣求浄土』を旗印に戦い、天下泰平の世
を築いたとするのです」
 これを聞いていた崇伝が口を挟んだ。
「そのようなこと、民はすぐに見破りましょ
う。すでに明神は世に馴染んでおります。そ
れを踏襲することで早く受け入れられましょ
う。これから新しい考えを唱えるは邪道にご
ざいませぬか」
 天海は崇伝を睨んで言った。
「何を申される。これから始まる天下泰平の
世は、かつての世とは違う。まったく新しい
世にしなければなりません。それには、後年
に世を乱した秀吉の明神を引き継ぐは、不吉
にございます。崇伝殿は新しい考えと申され
たが、これは太古の帝の祖先とも通じる、天
下の正道ですぞ」
「それを今の帝がお認めになりましょうか」
 話を静かに聴いていた秀忠が、側にいた道
春の弟、東舟(信澄)を見た。
「東舟、そなたはどうじゃ」
「お恐れながら、上様にはすでにお決めになっ
ておられましょう。この上、私を、この議論
の火の中に投じようとするは酷にございます」
「こやつめ、逃げおったな。わしは天海の申
すことがもっともだと思う。たしかに、崇伝
の申すことは、民に受け入れやすいかもしれ
ん。だが、父上が豊臣家を滅ぼしたのは自分
が神になるためとの誹りを受けるかもしれん。
これは天海の申す権現も、同じように帝に成
り代わろうとする謀略との誹りを受けるやも
しれん。どちらも険しい道ならば、わしは天
海の申す権現を選ぶ。これを帝に認めさせる
ことこそ、これから天下を治めるわしの器量
を世に示すことになろう。どうじゃ東舟」
「ははっ、良きご決断にございます。恐れ入
りました」
 崇伝は、この結果に不満顔で退去した。
 ひとり廊下を歩く崇伝の後を、東舟が追っ
た。
「崇伝殿、お怒りはごもっともにございます。
しかし、これで天海殿を政務から遠ざけるこ
とができるではありませんか」
 崇伝は立ち止まり、表情を変えた。
「それはそうじゃが、忌々しい」
「崇伝殿には、これからますます上様を支え
ていただかなければなりません。その重責を
思えば、大御所様の墓守など、天海殿にお任
せすればよろしいのではないですか」
「東舟殿。そなたは何を企んでおるのじゃ」
「企むなど、とんでもございません。日頃、
兄がお世話になっております。そのご恩返し
がしたいだけにございます」
「まあ、そういうことにしておこう。そなた
は上様にたいそう目をかけられておるようじゃ
からな。これからもよろしく頼むぞ」
「恐れ入ります。こちらこそ、よろしくお願
い申し上げます」
 この後、崇伝は、家康に関することには直
接口を挟まなくなり、東舟を仲立ちとして情
報をやり取りした。
 東舟は、天海と京都所司代、板倉勝重の次
男、重昌と共に江戸を発ち、京で、家康の神
号を朝廷に奏請した。
 禁中並公家諸法度で、幕府の管理下に置か
れている後水尾天皇や公家に、異論を唱える
ことなどできるはずもなく、権現号の勅許が
下された。