2013年8月31日土曜日

明と暗

 元和四年(一六一八)

 秀忠は、道春が諸大名や旗本らの侍講をす
るために、京、駿府、江戸を行き来している
ことを知ると、江戸だけに邸宅のない不便を
察して、神田鷹匠町に宅地を与えた。これに
は、秀忠が道春を疎遠にしているのではない
という心遣いもあり、そのことが道春にはう
れしかった。そしてこの年、もう一つ道春を
喜ばせたのは、三男が誕生したことだ。
 京に戻った道春に、長男の叔勝は、行儀よ
くお辞儀をして出迎えた。それに比べ、まだ
一歳を過ぎたばかりの次男、長吉は、寝床で
赤子と横になっている母、亀の側に座って、
きょとんとしていた。
「長吉、お前にも弟ができたのだぞ」
「旦那様、まだ分かりませんよ」
「そうか。それにしても亀、ようがんばって
くれたな。二人とも元気そうで何より」
「旦那様のお忙しい時に、私は何もできなく
て……」
「何を申す。わしは幸せ者じゃ。心配せんで
もいい。ゆっくり横になって養生してくれ。
そうそう、帰る道すがら名を考えた。吉松で
どうだ。吉運の吉に、松は長寿を願ってじゃ」
「良い名です。吉松、早く大きくなって父を
助けるのですよ」
「おお、笑った笑った。分かるのかのう」
「旦那様の子ですもの、賢いに決まっていま
す」
 叔勝は、吉松にかまってばかりの道春の気
をひこうと、習字をした紙を持って来て見せ
た。
「父上、私も賢いです」
「おお、よう書けておる。わしの子はどの子
も賢い」
 それでも長吉はきょとんとしていた。

 同じ頃、秀忠が娘、和子を後水尾天皇に入
内させる準備は着々と進んでいた。
 秀忠にせかされるように、京都所司代、板
倉勝重と武家伝奏、広橋兼勝の話し合いがお
こなわれ、翌年に入内と決まった。
 それを民衆に知らせ、後水尾天皇の決断を
迫るため、盂蘭盆には、京で初めての花火が
打ち上げられた。
 後水尾天皇は、花火の鳴り響く音を苦々し
く聞き、すでに譲位を決断していた。
 九月になると、小堀遠州を普請奉行とした
和子の居住する御殿の建設が始まった。しか
し、それに徒をなすかのように後水尾天皇と
女官、四辻与津子の間に皇子が誕生したこと
が分かり、秀忠は激怒して、藤堂高虎を京に
送った。
 後水尾天皇は一歩も退かず、高虎に譲位す
ると宣言した。
 そうした頃、空に不気味な彗星が現れた。
 後水尾天皇は、彗星の現れた時に譲位する
ことは、天意に叛くことになると悟り、譲位
を留保した。しかし、どうしても秀忠に和子
の入内を諦めさせようと、また四辻与津子と
交わりをもって、子を生すことを決意した。
 もはやこの程度しか対抗する手段がないほ
ど、徳川家の権力は強大になっていたのであ
る。

 元和五年(一六一九)

 秀忠は、後水尾天皇への怒りを忘れようと
政務に専念した。
 五月には京・伏見城に向かい、それに道春
は東舟と共に同行した。
 道春が呼ばれたのは、この頃、織田信長の
弟で、今は茶道を極めていた織田有楽斎が、
紫野大徳寺の僧、紹長から買った宗峰妙超の
書の掛け軸が贋作ではないかとの疑いがあり、
崇伝らの名だたる者が真筆と認めたが、沢庵
宗彭、江月宗玩などの僧侶がなおも贋作と主
張したため、幕府に裁断を求めた。それを聞
いた秀忠が、書の真贋を見極めるのに長けた
道春に鑑定させようとしたのだ。
 秀忠は、宗峰妙超の真筆の書を集めさせて
それと比較した。しかしはっきり分からない。
「道春、どうじゃ」
「拝見いたします」
 道春は、疑われている書を丹念に調べた。
「……。この書には筆跡に勢いがなく、迷い
ながら書いたか、手本を見ながら書いたもの
と見受けられます。それに、この箇所の字は
誤字です。妙超がこのような間違いを書き残
すとは思えません。この書は巧妙に書かれた
贋作と思われます」
「おお、なるほど。道春、よう見破った」
「恐れ入ります」
 この鑑定により、掛け軸が贋作と認められ、
売った紹長は処罰された。
 このことで贋作を見破れなかった崇伝は、
危うく秀忠から信用を失いかけた。しかし、
他の者も見破れないほどの巧妙な贋作だった
ということや、崇伝が真贋の鑑定を専門にし
ていたわけではないので、特にとがめられる
ことはなかった。
 しばらくして、崇伝は禅宗五山十刹以下の
寺院を取り仕切る僧録司に任じられた。