2013年8月4日日曜日

デウス号

 道春は、淀の動向も気になったが、それよ
りも重大な仕事を任されていた。
 この頃、日本は明や朝鮮との国交が先の朝
鮮出兵の影響で思わしくなかった。
 必要な物資が手に入りにくくなったことも
あり、貿易の相手国を求めて船出していた。
そうした最中の慶長十四年(一六〇九)に、
東南アジアのポルトガルが拠点にしていた港
で、日本人がポルトガルの船員に殺されると
いう騒動があった。その報復として、長崎に
寄航しようとしていたポルトガル船、マード
レ・デ・デウス号の船長、アンドレ・ぺッソ
アを詰問しようと待ち構えていた。しかし、
それを事前に知ったペッソアは、長崎から引
き返そうとした。そこで、肥前の日野江城主、
有馬晴信が船を出して襲撃すると、火薬の積
んであったデウス号は爆発炎上して沈没し、
乗組員三百人が水死した。
 このことを抗議し、賠償金と長崎奉行の解
任、国交の正常化と貿易の再開を要求して、
ポルトガル大使、ドン・ヌーノ・ソトマヨー
ルが駿府にやって来たのだ。
 道春が、この抗議に対する返答の書簡を起
草することになった。
 返答によっては、日本がポルトガルの属国、
最悪の場合には植民地になりかねない。
 道春の心中に石田三成の姿がよぎった。
 今思えば三成は、家康がオランダの船、リー
フデ号の航海士として乗船していたイギリス
人、ウイリアム・アダムスを軍事顧問とした
ことから、将来、諸外国に日本が侵略されか
ねないと思い、合戦をすることを決意した。
そのアダムズは今、三浦按針と名乗り、平戸
にオランダ商館を開設していた。
(諸外国の脅威が去ったとはいえないが、ポ
ルトガルが抗議している反面、国交の正常化
と貿易の再開を願っているということは、ま
ずは争わず、この国の金銀、産物を得ようと
する企みか。それはこの国とて同じこと。前々
からポルトガルが扱っている生糸を大御所様
は欲しがっておられた。そもそもこの騒動の
発端は、ポルトガルの船員が日本人を殺した
ことにある。こちらには非がないことを諭し、
ポルトガル人に、どの程度の思慮分別がある
か探る書簡がいいかもしれない)
 道春は、「ポルトガルが騒動の発端となり、
その後の対応のまずさから、ゼウス号が沈む
ことになったことを責め、要求された賠償金
と長崎奉行の解任を拒否した。しかし、国交
の正常化と貿易の再開は許す」といった内容
の強気の書簡を起草した。
 これにより騒動は治まり、貿易が再開され
た。そして、道春には外交文書の起草の仕事
が度々、任されるようになった。

 ポルトガル船、マードレ・デ・デウス号の
沈没騒動は、道春が始めて起草した外交文書
により、ポルトガルとの紛争は回避した。し
かし、これに関連した別の事件が発覚した。
 デウス号を沈没させた有馬晴信には、幕府
の目付けとして本多正純の重臣、岡本大八が
同行していた。この大八が晴信に、「幕府は
ポルトガル船を沈没させた功績の褒美として、
晴信殿の旧領地を戻そうとの動きがある」と
偽った。それを確実なものとするためと、正
純に働きかける金子を要求した。
 これを信じた晴信は、大八に金子を渡した。
 しばらくして、大八は家康の朱印状を偽造
して晴信に見せ、話が進んでいるように思わ
せて、さらに金子を要求した。こうして六千
両もの大金を懐に入れた。
 なかなか旧領地を戻すという知らせがこな
いことに疑念がわいた晴信は、正純にこのこ
とを話し、事件が明るみになったのだ。
 すぐに大八は詰問され、言い逃れとして、
「晴信が長崎奉行の長谷川藤広を殺害しよう
と企んでいる」と言い出した。
 今度は晴信が詰問され、デウス号への対応
で、藤広と意見の対立があり、殺害する気は
なかったが口走ったことを認めた。
 二人への処罰は、大八が火刑、晴信は流罪
の後、切腹を命じられたが、晴信はキリシタ
ンだったため、家臣に首を斬らせた。
 大八もキリシタンで、詰問された時に、幕
府内に多くのキリシタンがいることを白状し
た。
 家康はこの時はじめて、幕府内でキリシタ
ンの影響力が強くなっていることを知り、キ
リシタン禁教令を出し、京の教会を破壊させ
た。
 道春は、キリシタンのハビアンと論争した
ことを思い出していた。
 ハビアンは、今は棄教してキリシタンを批
判するようになっていると噂されていた。
 幕府がキリシタンを警戒するようになった
ことで発言権を増したのは崇伝だった。
 以前に亡くなった相国寺の承兌長老に続い
て、円光寺の元佶長老も亡くなり、天海と双
璧をなす存在として勢力を拡大していった。
 道春は、人の欲を抑えられない宗教に(武
器を使わない戦もあるのか)と、空しさを感
じた。