2013年9月30日月曜日

贈物

 寛永二十年(一六四三)

 大飢饉の真っ只中、朝鮮通信使の一行、四
百七十七人が、家光の嫡男、竹千代の誕生を
祝賀するためにやって来た。
 こうした理由でやって来るのには、明の崩
壊と金から国号を改めた清に、朝鮮も服属し
て政情不安になっていたことがある。
 それに比べ日本は、大飢饉で疲弊している
にもかかわらず、安定した政権を維持してい
ることから、その政治力に頼り、交流を深め
て後ろ盾にしようとする態度が明確だった。
 この時の三使は、正使・尹順之、副使・趙
絅、従事官・申濡だった。
 三使は家光に謁見して、竹千代誕生の祝辞
を書いた朝鮮国王、李宗の国書を渡した。
 それに対する返書を道春が起草して、元良
が清書した。
 その後、三使は日光東照社に参拝するなど
恒例になりつつあった行事を行った。
 今までと違っていたのは、三使が道春に贈
物を持って来ていたことだ。それは、前回やっ
て来た朝鮮通信使の話から、道春は鋭い質問
をする手強い人物だということが朝鮮政府に
知れ渡り、家光への影響力があると思われて
いたからだ。
 今回も、道春がどんな質問をしてくるか、
三使は恐れていた。しかし、道春は諸家系図
の作成が大詰めの時でもあり、それほどたい
した質問はしなかった。それを三使は、贈物
のおかげと勘違いして安心した。そのため、
春斎、守勝などとも和やかに交流して帰って
いった。

 八月になって、春斎に長男が誕生した。
 道春にとって初めての孫は、我が子とは違
う喜びがあった。
 諸家系図の作成も一通り終わって九月に入っ
た頃、明正天皇が譲位するという話しがあっ
た。
 家光から道春と春斎は、京に向かう酒井忠
勝、松平信綱に副使として同行するよう命じ
られた。
 後水尾天皇は突然、譲位して徳川家の血を
継ぐ、わずか七歳の長女、興子を明正天皇と
した。そして、後水尾上皇となって院政をお
こなっていた。
 明正天皇は、誰かに嫁ぐことも許されず、
子はいなかった。
 秀忠がいなくなり、大飢饉の世情不安を好
機とばかりに後水尾上皇は、明正天皇に譲位
させ、徳川家の血を排除する念願を果たそう
としていたのだ。
 家光には、これを阻止する気はなく、朝廷
との関係を改善して大飢饉を乗り切ることだ
けを考えていた。
 後継の天皇は、後水尾上皇と藤原光子の間
に生まれた第四皇子、紹仁と決まった。その
紹仁は、和子が養育しているので、徳川家の
影響力が完全になくなるわけではなかった。
 紹仁はまだ十歳で、粗暴なところはあった
が、学問が好きで、道春の師である藤原惺窩
の儒学を特に好んだ。そのため、副使の役目
を命じられた道春らに難題はなく、譲位の準
備を淡々とこなせばよい気楽な務めだった。

 道春が京に行っている間に、江戸では春日
局が死の床についていた。
 側では家光と孫の稲葉正則が必死の看病を
していた。
 春日局は稲葉正成に嫁ぎ、一時は主君、小
早川秀詮のもとを離れて没落しかけたが、そ
こから秀忠の正室、江与の懐妊と、その後の
嫡男、家光の誕生という幸運に恵まれた。
 やがて家光の乳母として、征夷大将軍にな
るのを助けた。そして長男、正勝の嫡男、正
則を相模・小田原の八万五千石の領主にする
こともできた。
 春日局自身も大奥を取り仕切るまでになっ
たのである。
 女性としては、豊臣秀吉に匹敵する大出世
だろう。
 今、お楽が家光の嫡男、竹千代を産むのを
見届け、その満足感に浸るように笑みを浮か
べて静かに息を引き取った。

2013年9月29日日曜日

大車輪

 寛永十九年(一六四二)

 これまで続いた凶作は、幕府にとって初め
ての大飢饉となった。
 民衆は田畑を売り、妻や子まで売って、そ
れでも飢えをしのぐことはできなかった。
 各地で餓死者が相次ぎ、さらに状況が悪く
なるという悪循環が起きていた。
 この凶作で、米相場が高騰したのを利用し
て不正を犯す役人や米を買占めて相場を混乱
させる商人が横行した。
 家光は、こうした不正を犯す者を処罰し、
倹約だけの方針を転換して、年貢などの制度
を改め、民衆救済の方策を次々に命じた。
 こうした中にも道春は、諸家系図の作成に
没頭した。
 各地の武家などから集まってきた膨大な家
系図を、崇伝の跡を引き継いだ金地院の僧侶、
元良や道春の私塾に書生として来ていた水戸
の人見卜幽、その甥、辻了的ら数十人が手伝
いに加わった。
 家系図は、徳川氏の一族である松平氏を初
めとして、松平氏が属する清和源氏から平氏、
藤原氏、諸氏、医者および茶道家等といった
順に分類された。
 家系図の中には、戦国の混乱にかこつけて、
名のある武将の家系図に組み入れるなど、偽っ
たと思われるものがあったが、道春はあまり
修正をせず編纂することにした。
 その理由として、早く作成することを優先
したこと。また、詳しく調べる検証方法もな
かったことがある。
 そもそも、徳川氏でさえ藤原氏から清和源
氏に改姓をしているため、偽った者を否定す
ることは出来なかった。そして、道春の中に
も林姓から木下姓、豊臣姓、小早川姓となり、
再び林姓となった複雑な家系で、今の自分が
存在していることを思えば、むしろ偽る者に
同情するほうが強かった。
 心のどこかで自分の存在を主張したかった
のかもしれない。
 作業のこうした粗雑さはあったが、諸家系
図が細かな個人履歴を網羅した、これまでに
ない貴重な記録書となることは間違いなかっ
た。
 道春はこれに加えて「本朝神代帝王系図」
「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」「織田信
長譜」「豊臣秀吉譜」といった、徳川幕府が
成立した以前の系譜を作成するように命じら
れていた。
 そこで道春は、三男、春斎に「本朝神代帝
王系図」「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」
「織田信長譜」を作成させ、十九歳になった
四男、守勝には「豊臣秀吉譜」を作成させる
ことにした。
 二人は道春に指導を受けながら、この年の
二月には書き上げることが出来た。
 その成果から、次に家光から命じられた「中
朝帝王譜」の作成では、春斎に上古から魏、
呉、蜀の三国時代を担当させ、守勝に晋朝か
ら明朝までを担当させて作成を任せた。
 二人の息子は道春の期待に応え、八月には
それらを完成させた。

2013年9月28日土曜日

待望の日

 寛永十八年(一六四一)

 この年も江戸では大火が起こり、大目付の
加々爪忠澄が死亡するなど、死者が三百人以
上にのぼる惨事から始まった。
 再建された江戸城・本丸に戻った家光は道
春を呼んだ。
 座敷には老中の太田資宗も呼ばれていた。
「道春、こたび、この資宗を奉行として大小
名、旗本、近習も含めた家系図集を作ろうと
思う。それを道春にも手伝ってもらいたい」
「ははっ」
 資宗は道春に一礼して言った。
「道春殿、この作業はこれまでにない大掛か
りなものとなりましょう。ご指導のほど、よ
ろしくお願い申し上げます」
「はい。こちらこそ、お願い申し上げます。
つきましては上様、我が愚息、春斎にも手伝
わせとうございますがよろしいでしょうか」
「それはよい。道春には良き後継者がおり、
うらやましいのぉ」
「はっ、恐れ入ります。ところでなぜ、家系
図集を」
「これは前々から考えておったことじゃ。権
現様の代より、大名に譜代、外様という区別
をしておったが、もはやそれは必要ない。わ
しは、全ての者を徳川のもとに集まった身内
だと思うておる。それを家系図集に記すこと
で形としたいのじゃ」
「ほぅ、それは良いお考えにございますな。
なるほど、皆とより絆を深めようとのお考え
にございましたか」
「そうじゃ。大変な作業になると思うが、資
宗と共によろしく頼んだぞ」
「ははっ」
 道春はさっそく、資宗と申し合わせ、全て
の武家にそれぞれの家系図を提出するように
求めた。
 こうしてこの壮大な作業が始まった。
 次に家光は、大詰めの仕事を完結させるた
め、平戸からオランダ商館長、フランソワ・
カロンを江戸城に呼んだ。
 オランダは、島原の乱で軍船を派遣して日
本に協力したが、キリシタンであることには
かわりなく、このまま平戸で交易を続けさせ
ることは出来ないと考えていた。そこで、長
崎の出島に移るように命じた。
 家光に謁見したカロンも、それを察してい
たのか素直に従い、引き続き交易の権利が得
られたことだけで満足した。
 これにより幕府は、外国との交易を完全に
掌握し、密航船の取締りを徹底することでキ
リシタンの流入を防ぎ、諸大名が勝手に力を
つけないよう管理し易くなった。しかし、点
在する孤島では、遭難船を装いやって来る密
航船と、これに人命救助と偽って密貿易をす
る商人がいた。そのため、交易を禁じられた
諸外国が、武力を使ってまで強く抗議するこ
とはなかった。

 一息ついていた家光のもとに、お楽が懐妊
したとの知らせが入った。
 お楽は、春日局の部屋子で、父は農民だっ
たが今は亡くなり、その後、母が古着商の七
沢清宗と再婚した。その店をお楽が手伝って
いた時、浅草参りに外出していた春日局の目
に留まって、大奥に入ることになったのだ。
 八月三日に、お楽は家光が待望していた男
子を産んだ。
 大喜びする家光を春日局がたしなめた。
「上様、まだまだ安心は出来ませぬぞ。病弱
な上様の血をひいておれば、これから幾度か
苦難もありましょう。気を引き締めて見守っ
てまいらねば」
「そ、そうじゃの。福、よろしく頼むぞ」
 冷静を装う春日局だったが、心では家光以
上に喜んでいた。
 生まれた子の名は家光の幼名で長生きした
家康の幼名でもある竹千代とした。
 江戸城内は喜びに湧き上がり、家光の側近
は盛大な祝賀を考えていた。しかし、家光は
凶作続きで財政も悪化していることを考慮し
て、質素な祝賀にするように命じた。
 威厳がついてきた家光の姿を側近は頼もし
く感じていた。

2013年9月27日金曜日

火種

 寛永十六年(一六三九)

 この年も凶作の影響が残り、家光は諸大名、
旗本にさらなる倹約を命じた。そして、キリ
シタンに影響力のあったポルトガルとの国交
を禁止して、海に面した諸藩には、不法入港
を監視するように命じた。また、ポルトガル
以外の許可を与えている外国船も、肥前・長
崎を唯一の入港先とした。
 このことで、外国との交易を収入源として
いた諸大名の中には不満と不信感がわき、家
光への信頼が失われてきた。それを払拭する
ため家光は、わずか二歳の長女、千代を尾張・
徳川義直の長男、光義に嫁がせて、義直との
絆を深め、後ろ盾とすることを決めた。
 これには、義直から私塾に先聖殿を寄進さ
れた道春が間をとりもった。
 千代を引き離された振は悲しみにくれ、病
弱だったこともあって寝込むことが多くなっ
た。
 そんな静まりかえった大奥で騒ぎが起きた。
 座敷や廊下の方々に煙がたちこめ、気づい
た女官らが「火事にございます、早くお逃げ
ください。火事にございます」と叫びながら
走り回った。
 煙は台所から上がり、炎は瞬く間に燃え広
がって、江戸城・本丸に飛び火して手がつけ
られない状態となった。
 大火はやがて本丸をすべて燃え尽くして鎮
火した。
 幸い、人への被害はたいしたことはなく、
少し前まで本丸の近くにあった富士見亭御文
庫は、紅葉山に移したばかりで、消失を運良
く免れた。
 家光は、すぐに火消しの制度を強化して、
浅野長直らを奉書火消役の専任とした。
 この頃、各地で火災が相次ぎ、貴重な書物
を預かっている道春としても気がめいる毎日
だった。
 そうした時、道春が以前から親しくしてい
た倉橋至政の娘と三男、春斎の縁談が持ち上
がった。
 倉橋至政の父、政範は御賄奉行をしていた。
 道春は、さっそく亀と相談し、十一月十五
日に婚礼をとり行った。

 寛永十七年(一六四〇)

 家光は、消失した江戸城・本丸が再建され
るまで西の丸に移っていた。
 この年は、家康の二十五回忌にあたるため、
家光は日光東照社に参拝した。これに道春も
同行してこの時の様子を「斎会の記」にまと
めた。
 江戸に戻って来た家光が政務に励んでいる
と、大奥から「寝込んでいた振の容態が悪化
した」との知らせがあった。
 家光がすぐに駆けつけると、振はすでに虫
の息で、昏睡状態のまま、しばらくして亡く
なった。
 家光は愕然とし、振から千代を引き離した
ことを後悔した。しかし、自分の病弱な身体
のことを考えれば、ここで立ち止まってはい
られない。なんとしても後継者を誕生させな
ければとの思いを強くした。
 家光の女の好みを一番よく知っていたのは
春日局で、だからこそ町で見かけた家光好み
の娘を次々と部屋子にして女官に仕立てたの
だ。そして、家光が大奥に来るのにあわせて、
女官をそれとなく目に留まる場所で働かせた。
 亡くなった振もそうして目に留まり側室と
なった一人だった。
 春日局には、家光の後継者を誕生させなけ
ればいけないという使命と、幕府からの期待
が重くのしかかっていた。しかしそれは、春
日局の権力を強めているだけと危惧する者も
いた。
 正室である孝子もそう感じていた。
 孝子は、すでに家光との関係は遠ざかって
いたが、公家である鷹司家の代表として、徳
川家に強い影響力を保つことを唯一の生きる
糧にしていた。また、春日局が公家の三条西
家と縁戚関係にあったことも、さらに対抗意
識を燃え上がらせた。そこで、自分の側に仕
える女官を家光に近づけるように仕向けた。
 これに春日局が口出しすることは出来ず、
いつしか水面下での公家を代理する静かな権
力争いが起こっていた。
 そうとは知らない家光は、好みの女官が目
に留まると、次々に呼んで夜を共にした。

2013年9月26日木曜日

東舟の死

 寛永十五年(一六三八)八月

 突然、東舟が病に倒れ、道春が駆けつけた
が、すでに息を引取った後だった。
 東舟は、道春よりも儒者としての才覚はあっ
たが、仮の弟になり、よく我慢して道春を補
佐した。
 道春を今の地位まで高めることに尽力した
東舟の死に顔は、満足そうだった。
「私がいなければ儒者としてもっと大成した
であろうに。すまん」
 そう言って肩を落とす道春に、側にいた東
舟の子、永甫が声をかけた。
「伯父上がおられたからこそ、父上はここま
でやってこられたのです。生前、父上はいつ
も申しておりました。『自分のような町人が、
大御所様や上様のお側に仕えることが出来る
など、夢のようじゃ。これはすべて兄上のお
かげ。お前も伯父上を見習ろうて励め』と」
「そうか、そのようなことを」
 道春は、慶長七年(一六〇二)に、京の町
家、林吉勝の屋敷で東舟と初めて会った時の
ことを思い出していた。
 東舟の言葉が、脳裏にこだました。
「兄上様は、藤原惺窩先生をはじめ、公家の
方々からも指南を受け多くの兵や領民を指揮
し、学問を実践されたと聞いております。そ
の成果は目覚しく、領地を復興させることも
叶ったとか。そのことを、私はうらやましく
思っています。私の家は貧しく、建仁寺で学
問を学びました。最近知ったのですが、稲葉
様のご援助があったようです。しかし、それ
でも思うようには多くを学ぶことができず、
鬱々とした日々を暮らしておりました。この
ようなことを話しますのは、兄上様に、私の
人生をお譲りするにあたり、私のこれまでを
知っておいてほしいと思ったからです。これ
が、町人というものです。これから不自由に
思われることがあるかもしれませんが、耐え
忍び、町人の心持で、信勝を生かしていただ
ければ幸いです」
 道春は、まっすぐな目ではっきりとものを
言う若き東舟を思い出して苦笑いし、涙が溢
れてくるのもこらえず泣いた。
 東舟の葬儀は、儒教の礼により執り行われ、
遺骸は、道春の私塾の先聖殿・北隅に葬られ
た。そして、東舟の跡を永甫が継いだ。
 永甫は、道春の三男、春斎と一緒に、道春
の補佐をして評定にも加わるようになった。
 この頃、家光は、家康が自分と同じように、
病弱な身体を薬草により体質改善して長生き
したことに見習い、品川と牛込に薬園を造る
ことを命じた。そして、道春をその指南役と
した。
 道春は、方々から和漢の薬草が集められる
と、効能ごとに分類し記録していった。

2013年9月25日水曜日

島原の乱

 寛永十五年(一六三八)

 反乱軍が籠城した原城は、三方が海に面し
た崖で、陸からは攻めにくい。しかし板倉重
昌は、松平信網が加勢にやって来ることを知
ると、これ以上てこずっていてはキリシタン
を擁護していると疑われ、処罰されるのでは
ないかと恐れた。
 そこで無謀な城攻めを決行した。
 それほど、幕府はキリシタンに対して、徹
底した排除を行っていたのである。
 反乱軍は重昌の部隊が攻撃してくると、鉄
砲や弓矢で応戦し、城に近づく将兵には熱湯
や大石で応戦した。それでも後には引けない
重昌は、強引に城に突っ込み、討ち死にして
敗北した。
 この勝利に反乱軍は、益田四郎のもとに結
束を強めた。
 その時、ほどなく加勢にやって来た松平信
網、戸田氏鉄の幕府軍は、十二万人の大軍と
大砲を装備していた。また、幕府はオランダ
にも軍船の派遣を依頼し、海からの攻撃も開
始された。
 オランダが参戦したのは、宗教よりも日本
との交易を優先し、ポルトガルを日本から排
除することで、交易の独占を狙っていたから
だ。
 海と陸からの大砲による砲撃で反乱軍は次
第に劣勢になった。それでも、幕府軍は降伏
を呼びかける気はなく、全滅するまで攻撃の
手を緩めなかった。
 しばらくして、城内から物音一つたたなく
なって戦いは終わった。
 破壊された原城には、女、子、老人を含め
て三万人以上の死体が横たわり、その中に益
田四郎の死体もあった。
 その後、反乱の責任を問われた島原藩主の
松倉重治は斬罪になり、天草藩主の寺沢堅高
は自刃した。
 この反乱以降、表立ってキリシタンを名乗
る者はいなくなり、隠れキリシタンは孤島に
逃れて細々と暮らすのみとなった。
 もとはといえば、凶作と藩主の失政による
反乱だったが、反乱軍がキリシタンの救世主
のように益田四郎を祭り上げたことが、幕府
のキリシタン弾圧を正当化させる結果となっ
た。
 家光は、この反乱を教訓として武家諸法度
を一部訂正し、将軍に反逆する者があれば、
幕府の許可を得ることなく、近隣の諸大名と
協力して鎮圧できるようにした。また、領国
が疲弊していることにも配慮して、商船に限っ
ては、五百石積以上の大型船の建造を許すこ
とにして、物資の輸送が円滑になるように整
備した。
 家光は、征夷大将軍になって最大の難局を
乗り越えたことで自信を深め、幕府の組織改
革も一気に押し進めた。

2013年9月24日火曜日

天草の予言

 寛永十四年(一六三七)

 家光は激務から体調を崩し、病の床につい
て年の初めを迎えた。
 道春は昼夜、家光のもとにあって漢方薬の
書を調べ、薬剤の手配を指示した。
 そのかいあって家光の体調は次第に回復し
ていった。
 そこで、家光は予定していた江戸城・本丸
の改修を諸大名に命じた。
 この年は、そんな波乱の幕開けだったが、
家光には嬉しいことがあった。
 側室にした振が子を身ごもっていたのだ。
 振は、春日局の養女となり、部屋子として
奥御殿に入り、女中奉公をしていた。それを
家光が目に留め、側室としていたのだ。
 三十四歳にして始めての子が誕生すること
に、家光より家臣たちが沸き立った。
 奥御殿のことは、家光に近い家臣でさえ秘
密とされ、側室がいるなど思っても見なかっ
たからだ。
 世間でも家光は、女嫌いと噂されていた。
そのため、家光を女嫌いに育てた春日局が、
奥御殿を取り仕切ることをいぶかしがる者も
いたぐらいだ。

 閏三月

 振は女子を産み、千代と名付けられた。
 嫡男ではなかったことに、家光はがっかり
したが、家臣たちは次に期待が持てると喜ん
でいた。そしてこれを機に、奥御殿は大奥と
して整備されることになった。
 ほとんどの者が、側室となった振が春日局
の養女だとは知らされていなかった。
 家光は、江戸城にあった家康の霊廟を、二
の丸の側に移転するよう命じた。
 するとその場所に、以前から飼っていた、
二羽の鶴が舞い下り、再び東に飛び立った。
 この話を聞いた家光は、吉兆と喜んだ。し
かしそれもつかの間、家光は再び、熱を出し
て寝込んでしまった。
 すぐに道春、東舟が侍医らと協議して、看
病に奔走した。
 こうした中、さらに家光を悩ませる問題が
南で起きていた。

 肥前・島原半島は、異常な天候が長年続き、
凶作に民衆が疲弊していた。
 それにもかかわらず、島原藩主、松倉勝家
が行う年貢の取立てはきびしかった。
 この地には、豊臣秀吉の代からの領主だっ
た有馬晴信の家臣が、今は農民となっていた。
その者たちが、怒りを募らせていた民衆を扇
動して、反乱軍を組織し、藩邸を襲って蜂起
したのだ。
 これを知った肥後・天草諸島でも、秀忠、
家光によって諸大名が改易されたあおりで浪
人となっていた者たちが、民衆を扇動して蜂
起した。この時、総大将を十六歳の益田四郎
とした。
 益田四郎が総大将になったのには、先の元
和二年(一六一六)に国外追放になったママ
コス神父の予言にわけがある。
「いずれ天下に幼子一人が誕生する。その幼
子は習わずして諸学を極めている。やがて幼
子が若者となった頃、天変地異があり、その
若者は民衆とクルスを掲げて立ち上がるだろ
う」
 この予言にあるように異常気象となり、神
童と噂されていた四郎の存在が符合していた
のだ。
 天草の反乱軍は、四郎を「天草四郎」と祭
り上げ、富岡城や本渡城を攻撃した。それも
つかの間、近隣の諸藩から幕府の応援軍が到
着したので撤退した。
 止むを得ず反乱軍は、島原半島に向かい、
島原の反乱軍と合流した。そして、廃城となっ
ていた原城を砦として籠城した。
 これを知った家光は、病の癒えない自分の
代わりに、板倉重昌を反乱の鎮圧に向かわせ
た。
 重昌は、九州の諸大名に原城の包囲を指示
したが、幕府の年貢の取立ての厳しさやキリ
シタン弾圧に同情する大名もあり、気勢はあ
がらなかった。そのため、打つ手がなく時間
を浪費していた。
 なかなか鎮圧したとの知らせがないことに
業を煮やした家光は、老中の松平信網、戸田
氏鉄に加勢するように命じた。
 一部の民衆による反乱が、大坂の合戦以来
の大きな戦になろうとしていた。

2013年9月23日月曜日

朝鮮への質問書

 道春は宗義成を通じて、三使に質問書を出
した。その質問では、儒学に関することの他
に、朝鮮の歴史に疑問を投げかけることを問
いただしていた。
「朝鮮の始祖である檀君が、国を統治したの
は千年余りといわれるが、そんなに長生きだっ
たのか。檀君の後を継承したといわれる子孫
については、明の古い書物に記されているが、
檀君については何も記されていないのはなぜ
か。そのような歴史は作り話ではないのか。
それから、明が殷といわれた時代に周を建国
した武王との争いに敗れ、殷の箕子が朝鮮に
逃れ、王となったと伝わるが、箕子が朝鮮に
来た時、その従者は五千人いた。殷の人、五
千人について明の古い書物には記されていな
い。これを書いた書物があるのか教えてもら
いたい」
 これに対して三使は、自分たちの歴史に言
いがかりをつける非礼な道春に憤慨しながら
も、答えられることには返答をした。
 さらに道春は、随員の文弘績に朝鮮の官位、
衣冠など国の組織について、また食事など生
活について問いただした。
 その最後の質問に「朝鮮では争いがあり、
前の国王、光海君が敗れ今の国王、仁祖になっ
たが、光海君は今どうされているのか」と聞
いた。
 光海君は秀忠の代には国王だったが、家光
が征夷大将軍になる間に、今の国王、仁祖に
追いやられていたのだ。
 これに対して文弘績は、王室のことは恐れ
多いとして語るのを拒んだ。
 東舟も他の朝鮮人たちに筆談で色々くどい
ぐらいに聞いてまわった。
 そうした道春と東舟のぶしつけな質問で、
朝鮮通信使が不快になっていることを聞いた
家光は、多くの家臣や朝鮮通信使のいる中、
道春を呼んだ。
「道春。そなたと東舟の質問は、あまり役に
立つものがない。私が知りたいのは、朝鮮で
の治世の方法や仁義忠信といった心得につい
てだ。通信使の方々に教えを乞う気持ちを忘
れてはならんぞ。よいな」
「ははっ」
 これで朝鮮通信使の不快は和らぎ、家光へ
の信頼は増した。
 しばらくして、朝鮮通信使は朝鮮と日本の
絆を深めることを約束して朝鮮へ戻っていっ
た。
 すぐに家光は、道春と東舟を呼んで、道春
に探らせていた朝鮮の内情を聞いた。
「こたびの通信使は、三使よりも従者である
訳官の洪喜男のほうが位が上にございます。
以前はこのように身分を違えることはありま
せんでした。これはやはり、朝鮮で政変があっ
たと見るべきでしょう。私と東舟の非礼な問
いにも、怒りはしますが、それ以上、事を荒
立てる様子はございませんでした。いちいち
上様におもねるような態度は、何かを欲しがっ
ているように感じました。こたびの渡来は、
上様に頼み事があったのではないでしょうか」
 家光がいぶかしげに言った。
「朝鮮は、明と金の争いの狭間でどちらにつ
くにしても国情は荒れる。だから、いざとい
う時のために、この国を後ろ盾にするつもり
だろうか」
「上様のご明察のとおりと思われます」
「しかし、今のこの国では朝鮮を手助けする
ことは出来ん。どうすればよいか」
「そこなのです。本当に困っていれば、こた
びは是が非でも上様に頼ったでしょう。それ
をしなかったということは、まだ余裕がある
のかもしれません」
「もしそうなら、こちらも今のうちに備えを
整えておかねばならんな」
「はい」
 家光はすぐ家臣らに命じて、食糧の安定を
図り、相模、箱根に関所を設けて人の移動を
制限した。そして、前々からポルトガル人を
肥前・長崎に造った出島に住まわせるように
命じていたのを急がせた。
 こうして国内の管理体制を整えさせた。

2013年9月22日日曜日

家光の苦境

 寛永十三年(一六三六)

 この年は暴風雨から始まった。
 思えば家光の代になって、悪天候により農
作物が育たない年が続いている。そのたびに
家光は質素倹約を呼びかけ、諸大名が自ら、
庶民の手本となるように命じた。また農民に
は、年貢を減らし猶予なども行った。しかし、
それでも間に合わず、幕府の貯蓄米を放出す
る事態となった。
 この頃、銅銭は諸大名が自由に鋳造するこ
とができた。そのため銅銭の価値が下がり、
物の流通にも悪影響が出ていた。それがさら
に庶民の暮らしを悪化させていた。
 そこで家光は、江戸・芝と近江・坂本だけ
で新たな銅銭「寛永通宝」を鋳造し、諸大名
には銅銭の鋳造を禁止して、寛永通宝を買い
取らせることで銅銭の統一を図った。
 またこの年は、日光東照社に家康の遺骸が
久能山から改葬されて二十年にあたることか
ら、その遷宮のため、幕府がすべての費用を
支払って大規模な造り替えを行った。
 これも困窮した庶民の救済となった。
 こうした状況の中、朝鮮から通信使がやっ
て来ることになった。
 これまでは、征夷大将軍が代わったことを
祝賀するために来ていたが、今度は泰平になっ
たことを祝賀するためとの理由だった。
 家光は、先の国書改ざんのこともあったの
で道春を呼んだ。
「上様、通信使の来訪とは、急なことにござ
いますな」
「そうなのだ。対馬の義成が失態を償うため
に取り計らったのだろうが、朝鮮がなぜ来る
気になったのだろうか」
「もしや、明が衰退しておるのと関係がある
かもしれません」
「明の衰退」
「はい、明は、金という新たな国と戦となり、
国力が衰えております。噂では、朝鮮にも金
が圧力をかけておるように聞きます」
「そのようなこと、なぜ、今まで黙っておっ
た」
「申し訳ございません。まだ確かなことが分
かっておらぬゆえ、お耳に入れては政務にさ
しさわりがあると思ったのです」
「まったく、余計な気をまわすでない。とこ
ろで『国王』と改ざんしたことはどうすれば
よい」
「はっ、それにつきましては、今後『大君』
を使うのがよろしいかと」
「大君か」
「はい、大君ならば、朝鮮は国王と同格か、
変更したことで位が上がったと受け取りましょ
う。わが国では、大君とは主君のことであり、
帝をないがしろにしていることにはなりませ
ん」
「おお、それはよい。あとは朝鮮の内情を探
るしかないな」
「ははっ」
 家光は道春と、朝鮮通信使が来た時の対応
方法を練り、準備を進めた。

 朝鮮通信使の一行、四百七十八人は、十二
月に江戸へ到着した。その三使には正使・任
絖、副使・金世濂、従事官・黄カンがなって
いた。
 朝鮮からの国書には、事前に知らせていた
ように「日本国大君殿下」と宛名が記されて
いた。それに対する返書は、すべて道春が起
草した。そして、今は亡き崇伝の後継者となっ
た僧侶、元良が清書した。
 日本の朝鮮への対応は、これまでとは違い
強気だった。
 日本の使節が朝鮮に行った時、堂上の大使
を前に庭で拝礼をしていたので、家光にも朝
鮮通信使が前の庭で拝礼するか、家光が椅子
に座り、その前で拝礼するように求めた。
 これに対し、正使の任絖が「非礼であり、
豊臣秀吉の悪しき治世を思い起こさせる」と
激怒した。
 そこで、家光が譲歩して、これまで通りの
拝礼とした。
 朝鮮通信使を連れて来た対馬藩主、宗義成
は、家光の面目を保とうと、三使に日光東照
社に参拝するように促した。
 朝鮮通信使は、泰平の祝賀での来日であり、
日光東照社がその礎を築いた家康の霊廟だと
いうこともあってこれに応じた。

2013年9月21日土曜日

国書争論

 寛永十二年(一六三五)

 林家が江戸で始めての正月を迎えた。
 道春の家族に加え、東舟の家族もそろった。
 東舟は、二人の子をもうけたが、長男は早
くに亡くなり、春斎と同い年の次男、永甫が
儒学を志していた。
 十二歳になった道春の四男、右兵衛は、名
を守勝と改め、三歳の頃にはまだ歩くことが
できず心配していたが、普通の子に育ち、無
邪気に遊んで場を和ませて、この日の主役と
なった。
 三月に対馬藩主、宗義成の家老、柳川調興
から、幕府に訴えがあった。
 それは、義成の父、義智の代から、「幕府
と朝鮮とのやり取りをした国書を改ざんして
いる」というものだった。
 そのことも問題だったが、家臣が主君を訴
えるということも、忠義を重んじる幕府の方
針に逆らうものとして問題になった。そこで、
江戸城に義成と調興を呼んで争論させ、その
上で家光が裁断することになった。
 争論の前日、家光は、主だった重臣と道春
を呼び協議した。
 過去、朝鮮に送った国書は、崇伝が起草し
「日本国源秀忠」あるいは「日本国主」と記
名する慣わしだった。それを義智、義成が「日
本国王源秀忠」「日本国王」と国王の認めた
国書のように改ざんしたのだ。
 家光は、このことについて道春に意見を求
めた。
「国王とは帝であり、朝鮮では、今まで送っ
た国書はすべて帝の言葉、あるいは、徳川家
が帝の家系になったと受け取りましょう。も
し、へりくだった文章を書いていたとすれば、
朝鮮はこの国をさげすんでみているかもしれ
ません。しかし、いまさら訂正するわけには
まいりません」
「宗家が余計なことを」
「上様、お恐れながら、義成殿は亡き父、義
智殿に倣うしかなく、宗家はこの国と朝鮮の
対面を保とうとしたのです。原文の国書のよ
うに国王ではなく国王の家臣からの書簡とし
ていたのでは朝鮮は重要なものとは思わず、
あるいは受け取らなかったかもしれません。
それを考えれば止むを得なかったと思われま
す」
「それは分かる。しかし、今後をどうするか
だ。まあそれは後々のこと。問題は調興だが、
家老とはいえ、これは進言とは言えぬ。己が
主君に取って代わろうとする魂胆が見え透い
ておる。それに、私を甘く見ているようにも
思える。皆はどうじゃ」
 皆、相槌を打ち、調興を処罰することが決
められた。

 次の日

 江戸にいた諸大名が、すべて江戸城の大広
間に集められた。そして、家光の前で、宗義
成と柳川調興がそれぞれの言い分を述べ合っ
た。
 二人が言い尽くしたところで、家光が静か
に話し始めた。
「調興が言うように、宗家のしたことは許さ
れざることだ。しかし、義成は今は亡き父、
義智から引継いで間がなく、『日本国王源秀
忠』『日本国王』と書くことはもはや慣習と
なり、それに従うしかなかったであろう。本
来、義智を正さねばならなかったのは家臣で
ある調興、そなたらではないか。誠の忠義を
はきち違え、己の利のためにその罪を主君に
なすりつけるとは不らちである。よって、義
成を赦免とし、調興と改ざんに直接かかわっ
た者らを罰する。罰は追って沙汰する。以上
じゃ」
 しばらくして、調興は津軽に配流となり、
国書の改ざんに関わった僧侶、規伯玄方は陸
中・南部藩に配流、家老の島川内匠と調興の
家臣、松尾智保は斬罪となった。
 こうした争い事が増え、その処理にあたっ
ていた稲葉正勝が亡くなって以降、家光を煩
わせることが多くなった。また、江戸から離
れた地域の内情を把握する必要があるため、
武家諸法度の見直しをすることになった。
 武家諸法度の見直しは、老中らが集まって
協議し、それをもとに道春が、東舟の協力を
得て起草した。
 以前の、秀忠が崇伝に起草せた十三ヶ条の
武家世法度を、より分かりやすく身近なこと
にも踏み込んだ内容となった。そしてさらに
六ヶ条を増やして十九ヶ条とした。
 新たに加えられたものに、参勤交代がある。
 これまでも、江戸近隣を領地とする諸大名
は頻繁に江戸城に出向き、重臣らに付け届け
をして、家光との絆を深めようと争った。
 家光はその応対をするため政務が遅れた。
 その一方、江戸より遠方を領地とする諸大
名は、なかなか出向くことが出来なかった。
 こうした地域間の格差があり、不公正なも
のとなっていた。また、偏った情報しか入ら
ず、その悪習が表に出たのが対馬の国書改ざ
んだった。
 これを改めるため、諸大名は領地と江戸と
を一年ごとに参勤することにし、頻繁に出向
く大名を遠ざけ、遠方を領地とする大名との
公平を保つことにした。
 これにより、各地の情報を集めることもで
き、大名のいない間、領地の管理を家臣に任
せることで、忠義を試し、不正も見つけやす
くなると考えた。
 参勤交代で負担が増えることも配慮し、供
をする家臣の人数を減らすように戒められた。

 かつて小早川秀秋は、筑前、筑後を領地と
していた時、主な家臣を各地にある諸城の城
主として、普段は秀秋の居城、名島城に集め
て城主間の情報交換をさせ、領地全体の様子
を把握した。そうすることで短所を見つけや
すく、長所を広めやすくした。

 道春は、当時の記憶をたどり、だぶらせて
いた。
 出来上がった武家諸法度は、家光の承認を
得て、六月に、尾張、紀伊、水戸の徳川御三
家と江戸にいた諸大名を江戸城に呼び集め、
大広間で道春に全文を読ませた。
 その後、幕府は、寺社と遠方の藩からの訴
訟を管轄する寺社奉行を設置して、老中、若
年寄、寺社奉行、町奉行、勘定頭などの組織
を再編した。
 家光は、旗本にも武家諸法度よりさらに生
活を規定した旗本諸法度、二十三ヶ条を道春
に起草させた。そして、十二月に旗本全員を
江戸城に呼び集め、大広間で年の瀬の慰労を
した後、この時も道春に旗本諸法度の全文を
読ませた。
 これは、道春のような儒者が僧侶に取って
代わる先駆けになった。
 ようやく幕府の体制が整い、より緻密な政
務が出来るようになった。

2013年9月20日金曜日

目指す世

 一通りの行事を終えて大坂城に入った家光
のもとに、江戸城・西の丸が火事になり全焼
したという知らせが入った。
 西の丸は、家光自身もそこで過ごし、亡き
秀忠も住まいしていた思いの強い場所だった。
 火事は過失による出火という知らせだった
が、キリシタンなどの不穏な動きを警戒して、
家光は急きょ、江戸に戻ることになった。
 この時、かねてから決まっていた譜代大名
の妻子を江戸に住まわせる幕命を発した。こ
れには、道春の家族も対象になり、譜代扱い
されるようになったことを意味していた。
 道春は、家族と一緒に江戸に向かうことを
決め、家光が江戸に向かった後も京に留まり、
引越しの準備をした。
 この間、道春と東舟は、藤原惺窩の門下で
四天王と呼ばれていたそのひとり、堀杏庵の
邸宅で行われる詩歌会に呼ばれることがあっ
た。そこには、那波活所、松永貞徳、安楽庵
策伝らが居並ぶ中、木下長嘯子とも久しぶり
に会うことができた。
 詩歌会では長嘯子が題を出し、貞徳、策伝
らの歌人は和歌を、道春らの儒者は漢詩を作っ
て楽しんだ。
 一息つくと皆、家光に重用されるようになっ
た道春に、今後、家光がこの世をどうしてい
くつもりなのか聞きたがった。
「私はまだまだ上様に重用されているとはい
えません。その上、稲葉正成殿、正勝殿が亡
くなり、後ろ盾を失いました。残るは福のみ
ですが、こちらは兄上のほうがお詳しいでしょ
う。頻繁に会っていると噂に聞きます」
 長嘯子がむせるように、咳を一つした。
「そのような噂があるのか。これは参った。
しかし、やましい事は何もしておらんぞ」
「分かっております」
 そこで、長嘯子は春日局について話し始め
た。
「福、いや春日局は、密かに娘を多数集め、
奥御殿を大きな勢力とされておるようです。
大御所様が亡くなり、上様は正室の孝子様を
まったく受け付けなくなっておられるご様子。
しかし、朝廷との関係を保つため、離縁はさ
れませんでしょう。問題は世継ぎです。春日
局が密かに娘を多数集めておるのもそのため。
これらの娘の中から側室を選ばれるようにし
ておると申しておりました」
 それを聞いていた道春が、補足するように
話した。
「以前、上様は私に『民と結ばれることが天
下泰平を万民に行き渡らせることになる』と
申されました。大御所様がご存命の時には、
そのようなことは到底出来ませんでしたが、
今は誰も止める者はおりません。いよいよ実
行にうつされるのでしょう。もはや、キリシ
タンもその力は尽き、異国との交流も限られ
たものとなりつつあります。これはまさに、
桃源郷ではありませんか」
 道春は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の
合戦で、松尾山に布陣した時、小早川秀秋と
して、松尾山城の曲輪に待機していた小早川
隊、一万五千人の将兵を前にして自分の理想
の国のありかたを話したことがあった。

「大陸の明には桃源郷の物語がある。河で釣
りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い込
み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。そ
こにいた村人は他の国のことは知らず、戦は
なく、自給自足で食うものにも困らない。誰
が上、誰が下と争うこともない。これが桃源
郷だ。太閤様も俺も、もとはみんなと同じ百
姓の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。
親兄弟、子らが生きたいように生き、飢える
ことのない都を皆と一緒に築きたいと思う。
そのために俺はこの身を捨てて戦う」

 道春の、この時の思いが今、実現に近づい
ているように思えた。
 すると、那波活所が思わぬことを口にした。
「その明ですが、今、内乱が起きているとい
うのを道春殿はご存知ですか」
「いえ。明の国情が乱れているとは聞いてい
ますが。多忙にかまけて世情に疎くなってお
りました」
「そうでしょうな。上様も政務が膨大になれ
ば本当のことは伝わっていないでしょう。私
が調べたところ、明をヌルハチなる者が攻め、
金という国を起したそうです。その後、ヌル
ハチは亡くなり、今は子のホンタイジが後継
者となっておるようです。この対立で、明の
国情が乱れ、朝鮮にも影響が出ているとのこ
とです」
「朝鮮はどちらに味方しておるのですか」
「ヌルハチの頃は、明に味方しておったよう
ですが、今は金の勢力が強くなって、攻めこ
まれたとも聞きました」
「そうですか。二百年続いた明でも……、そ
うですか」
 活所は顔をくもらせて話した。
「それにはどうも、豊臣秀吉公の朝鮮出兵が
きっかけになっているようなのです。明が朝
鮮出兵に気を取られている間に、ヌルハチが
力をつけたらしい」
「知りませんでした。活所殿、よく教えてい
ただきました。ありがとうございます」
「いえいえ。道春殿には、この世を良き方向
に導いてもらわねばなりません。そのために
は、私も微力ながらお力になればと思いまし
て。ここに集まった者は皆、そう思っておる
のです」
 皆、深くうなずいた。
「責任重大ですね。皆さんのご期待にそうよ
う、力を尽くしてまいります」
 さらに活所が思い出したように話を続けた。
「おぅ、そうそう、道春殿には、東舟殿とい
う強いお味方がおられますが、春勝殿も立派
になられましたぞ」
 道春の三男、春勝は、道春から儒学を学ぶ
のではなく、那波活所らに入門して修行して
いた。
「春勝が。あの子は東舟をはじめ貞徳殿、活
所殿に教えを乞いました。そのお力添えがあ
ればこそです」
「いやぁ。教えても己のものにしなければ意
味がありません。血筋でしょうな。蛙の子は
蛙。いや、鷹の子はやはり鷹だったというこ
とでしょう」
「恐れ入ります」
 喜んだ道春は、自宅に戻ると春勝に断髪さ
せ、春斎という号を与えた。そして十月になっ
て、家族全員で江戸に向かった。
 江戸に着いた道春は、家光に三男、春斎の
拝謁を請い許された。
 道春の後について歩き、江戸城に向かう春
斎は、城の周りを物珍しそうに見渡しながら、
家にいる時は気さくで優しい父、道春の後姿
が、ひときわ大きく見えていた。
 二人が江戸城の座敷に入ってしばらくする
と家光が現れ、春斎は平伏した。
 道春に促されて春斎が顔を上げると、そこ
には征夷大将軍の風格が出てきた家光が堂々
と座っていた。
 春斎の身が自然と引き締まった。
 家光は、道春がいつもとは違う父親の顔に
なっていることがおかしかった。
「そなたが春斎か」
「はっ。お初に、お目にかかります。春斎に
ございます。このたびは、上様に拝謁の栄誉
を賜り、最上の誉れにございます」
「ふむ、そなたの父上を見習い、よう精進し
て私を助けてほしい」
「ははっ、身命を賭して、上様にご奉公いた
します」
「道春、そなたは良き後継者に恵まれたな」
「恐れ入ります。今後は春斎を側におき、さ
らに精進させとうございます」
「それはよい。私も、そろそろ後継者のこと
を考えねばな」
「おお、ご決断なさいましたか」
「なんじゃ、決断とは。もしや、福から何か
聞いておるのか」
「あぅ、いや、なにも。しかし、子をもうけ
るのは早ければ早いほどよろしい。と思いま
す」
「こればかりは神のご加護がなければな」
「その前に、良き女性(にょしょう)にござ
います」
「やはり福に聞いておろう」
「いやなにも。それより、この冬の不作は民
がたいそう難儀をしておりましたが、上様の
ご配慮で一息ついておるようにございます」
「おお、そうか。それはなによりじゃな」
 春斎は、二人の会話に強い信頼と深い絆を
感じた。

2013年9月19日木曜日

弟の死

 家光はすぐに稲葉正勝を呼び、自刃した経
緯を調べさせた。
 正勝にしても他人事ではなかった。忠長の
側には弟、正利が仕えていたからだ。
 家光はこの時、初めて、忠長の気持ちを見
誤っていたことを悟った。
 道春が家光のもとに駆けつけた時には、力
なくうなだれていた。
「上様……」
「あれには悪いことをした。私のせいです。
私が幼き頃から病弱で、周りからは国松が後
継者と思われておりました。そのため国松は
将軍となるように育てられていたのです。そ
れが、私が将軍になったことで、家臣として
生きなければならなかった。国松はそのよう
なこと思うてもみなかったでしょう。人に従
うということなど国松には出来なかったので
す。どれだけ辛い思いをさせ、傷つけたか。
申し訳ないことをした」
「上様。辛いお気持ちはよく分かります。私
もかつては上に立つ者として、多くの者を死
に追いやりました。今、こうして人に仕える
身になり、その辛さ、苦しさがよく分かりま
す。しかし、だからといって後戻りなど出来
ません。ひとたび家臣となれば、主君に身命
を賭して仕えるのがさだめ。それを忠長殿に
進言しなかった取り巻きこそ、責任は重大で
す」
「道春……」
「さあ、上様。今後はそのような弱気な姿を
家臣に見せてはなりませんぞ。忠長殿に報い
るには、将軍である上様が、天下泰平を磐石
なものにすることです」
 しばらくして、家光は稲葉正勝の報告を聞
き、忠長の取り巻きの家臣らを処罰するよう
命じた。
 この時、正勝の弟、正利は、すでに忠長の
後を追って自刃していた。
 正勝は、その辛さをこらえて後始末に奔走
していたが、突然、体調を崩して血を吐いた。

 寛永十一年(一六三四)

 年が明けて間もなく、春日局は、やつれて
病床にあった正勝の側にいた。
「母上、正利を、助けることが出来ませんで
した。申し訳ありません。父上の、万分の一
も、お役に立てませんでした。申し訳ありま
せん」
「なにを申す。正勝は稲葉家の大功労者です。
私の誇りです。今はゆっくり養生しなさい。
私が必ず病を治します」
「母上、私のことより、上様をお守りくださ
い。上様こそ、ご心痛が深く、孤独になられ
ておるのです。早く、上様を支える者を、見
つけねば」
「分かりました。上様のことは母が守ります。
心配いりません。上様には母の違う弟君がい
らっしゃるのです。そのお方が、上様の支え
となりましょう」
「そうでしたか。よかった。これでゆっくり
眠れます。母上、ありがとうございます」
「そうです。焦らず、ゆっくりと養生するの
ですよ」
 正勝は心地良さそうに眠りについた。それ
から数日後、起き上がることもなく、息を引
き取った。

 この頃、江戸の町は相次ぐ火事に見舞われ、
混乱した年の幕開けとなった。
 家光にとって、もっとも信頼できる正勝の
死は、肉親を失う以上の大きな痛手だった。
 正勝には、嫡男、正則がいたが十一歳とま
だ幼かった。しかし、家光は正勝の忠義に報
いるため、春日局の兄、斉藤利宗を正則の後
見人として、相模・小田原の八万五千石を相
続することを許した。
 春日局は、家光の孤独と落胆した様子を察
して、その支えとなるであろう保科正之に引
き合わせることにした。
 正之は、今は亡き秀忠が密かに心を寄せた
侍女の静に産ませた子で、信濃・高遠藩の藩
主、保科正光の子として養育されていた。
 死を悟った秀忠とは会っていたが、家光に
は隠されていた。
 家光は、義母弟がいることを知るとすぐに
会いに行った。
 七歳下の正之は、家光を主君として迎え、
家光が義母兄だと告げられてもその態度は変
わらなかった。
 父の秀忠を恨むこともなく、まっすぐな性
格に育っていたことに、家光は感心した。そ
してすぐに意気投合した。
 家光は、この強い味方を得たことで気力を
回復し、難題山積の政務に取り組んだ。
 その頃、道春は、自刃した忠長の旧邸から、
その中でも格別大きな屋敷を家光から与えら
れ、私塾の先聖殿近くに移築して、塾生たち
の寮とした。
 六月になって、家光が京に向かうのに道春
も同行した。
 京・二条城に入った家光は、朝廷との関係
改善を願い、公家、諸大名らを招待して盛大
な宴を催した。
 道春はその様子を「寛永甲戌御入洛記」に
まとめた。そして、京都所司代、板倉重宗に
寄せられた訴訟の協議にも加わるなど多忙を
極めた。

2013年9月18日水曜日

家光の改革

 秀忠という足かせがとれた家光は、滞って
いた政務に自ら手を着けた。
 手始めに、問題のある諸大名は外様だけで
はなく、譜代、旗本といった身内でさえ次々
と改易した。それから幕府組織の再編を行い、
法制度の見直しを始めた。
 このすばやい対応に、誰も反発する隙がな
く、秀忠の陰は一気に消え去った。
 家光は厳しい処罰をする一方、紫衣着用の
勅許の件で配流にした沢庵宗彭、玉室宗珀を
赦免とするなど、処罰の公正にも努めた。
 難問だったのは、甲斐に蟄居している弟、
忠長の処分だった。これを家光は、忠長の所
領としていた駿河、甲斐を没収し、上野・高
崎城に幽閉することに決めた。
 かつて秀忠の弟、松平忠輝も、秀忠との確
執から、伊勢・朝熊山へ配流となり、その後、
飛騨・高山に移った。そして今は、信濃・高
島城に幽閉の身ながら、城主の諏訪頼水には
持て成され、温泉や俳句、茶などを楽しみ、
幕府に刃向かうこともなく、質素な暮らしを
していた。
 家光は、忠長にも忠輝のような生き方を見
つけてほしいと願っていた。それが、幕府を
二分して再び戦乱の世にしない唯一の方策と
考えていた。

 寛永十年(一六三三)

 正月になって間もなく、崇伝が病に倒れ死
んだことが家光に知らされた。
 崇伝は、政務に深くかかわっていたが、こ
の頃はすでに海外との国交がほとんどなくなっ
ていたため、外交文書の起草はそれほど必要
なかった。
 そこで家光は、内政の助言を、権力に媚び
ない沢庵に求めることにした。しかし、沢庵
はこれを辞退した。
 その態度をさらに気に入った家光は、何か
と理由をつけて沢庵を江戸城に呼び出して、
助言を求めるという妥協策にでた。これには
沢庵も従わざるおえなかった。
 沢庵が幕府に深くかかわることを拒んでい
るため、実務は道春にまわってくるようになっ
ていった。
 七月に家光は、上野にある東照宮に参拝し、
寛永寺の天海を訪ねた後、道春の私塾にも初
めて立ち寄った。
 私塾の塾舎は、塾生が三十人ほど入ればいっ
ぱいで、こぢんまりとした建物だった。
 それに比べ、徳川義直が寄進した先聖殿は
立派なもので、家光は孔子像を興味深そうに
眺めた。そして、久しぶりに道春から「書経、
堯典の章」の講義を受けた。
 講義を終えた家光が道春に語りかけた。
「道春、今後は海外からの文物は手に入りに
くくなる。となれば、この国独自で知恵を高
めねばならん。こうした学問所の役割は重要
になってくるであろう。そなたにもおおいに
期待しておる」
 そう言って家光は、白銀五百両を道春に与
えた。それに加え、秀忠が亡くなり、道春の
補佐をすることになった東舟にも時服三領が
与えられた。

 しばらくは家光に逆らう諸大名はいなかっ
たが、秀忠という大きな後ろ盾がなくなり、
相次ぐ改易で不満が芽生え始めていた。
 特に外様大名には動揺があった。
 そこで家光は、外様大名の筆頭にあった加
賀・前田家を後ろ盾とするため、水戸・徳川
頼房の娘、大を家光の養女として、前田利常
の長男、光高に嫁がせることを決めた。
 利常の正室が家光の姉、珠だったこともあ
り、前田家に異存はなかった。
 このことで家光は道春を呼んだ。
「道春、先に私が養女とした大姫と、加賀の
前田光高殿との縁組が成った。そこで、婚礼
の次第書と婚礼記をそなたに書いてもらいた
い」
「ははっ」
 次第書は、婚礼の儀での手順を書いたもの
で、亡くなった崇伝の役目だった。その大役
が道春にまわってきた。
 婚礼の儀は、十二月に盛大に行われ、家光
は一安心していた。ところが、そこに突然、
思わぬ知らせが入った。
 信濃・高島城で弟、忠長が自刃したのだ。

2013年9月17日火曜日

追号論争

 寛永九年(一六三二)

 容態の急変した秀忠は、いく度となく生死
をさまよい、正月二十四日の夜に息をひきとっ
た。
 家光は秀忠の表情を見て、病から開放され
て穏やかに眠っているように感じた。そう思
いたかったのかもしれない。
 すぐに秀忠の葬儀を準備する一方で、天海、
崇伝、道春、東舟の四人が集まり、追号を協
議した。
 天海は、かつて家康の神号を崇伝と争い、
自分の提案した権現と決まったことで、今度
も主導権を握っていた。
「大御所様は明正天皇の祖父。それゆえ太上
天皇の尊号がふさわしく、衡岳院とするのが
良かろう」
 太上天皇とは上皇のことで、天海は秀忠も
家康に続いて神とすることを構想していたの
だ。
 それに東舟が反対した。
「大御所様には、権現様のように神になるお
つもりはありませんでした。ましてや太上天
皇となれば、権現様を超えた存在になるでは
ありませんか」
「それは違いますぞ。権現様の子なれば、興
子姫を明正天皇とすることができたのじゃ。
その功績を考えれば、太上天皇の尊号こそが
もっともふさわしいではないか」
 今度は道春が反論した。
「それは天下を乱すもとにございます。上様
は常日頃から民のことをお考えです。もし大
御所様が太上天皇となれば、民は徳川家が帝
を落とし入れ、御譲位させたという噂を事実
と受けとめましょう。その中には、キリシタ
ンのようにひどい目にあうと考える者たちも
おりましょう。それが朝廷を勢いづかせてし
まいます」
「そのようなことは、そなたの思い過ごしじゃ。
民は今の天下泰平の世を喜んでおる。それを
築いた大御所様を神と崇めるのは間違いのな
いこと。朝廷が反対すれば孤立するだけじゃ」
 なおも東舟が食下がった。
「そもそも太上天皇の尊号とするのであれば、
ここで決めることは出来ません。朝廷に奏請
する必要があります」
「なにを申すか。それでは拒否されるのが目
に見えておる。密かに帝のもとに参り、勅号
をいただくのじゃ」
 道春が苦笑いして言った。
「名ばかりの神になったところでなんになり
ましょう」
「黙れ。お前らのような若僧になにが分かる。
天下泰平は黙っていて転がりこんでくるよう
なものではない。かつての戦乱の世に戻らぬ
ためにも、ここで一気に推し進めねばならん
のじゃ」
 道春も声を荒げた。
「焦って事を進めて、良い結果になったこと
はありません。知恵のない力ずくは、下策に
ございますぞ天海殿」
 天海と道春の口論に東舟が加わり、次第に
罵声をあびせあうようになった。そこで、中
立の立場を保っていた崇伝が協議を中断させ、
家光に判断を仰いだ。
 家光は、秀忠の追号の協議で結論が出なかっ
たことを聞き、この機会に、朝廷がどのよう
な態度に出るかを探るため、道春に、衡岳院
太上天皇の尊号も含めて朝廷に奏請するよう
に命じた。
 道春は、二月に江戸を発ち、京に着くと、
京都所司代の板倉重宗や元内大臣の三条西実
条、武家伝奏の日野資勝らと会い、秀忠の追
号を奏請した。
 しばらくして江戸に戻った道春は、家光の
もとに向かった。
「上様、ただいま戻りました。早速ですが大
御所様の追号のこと。朝廷としては『大御所
様が太上天皇の尊号にふさわしいお方ではあ
るが、帝となられたことはなく、まずは正一
位を贈り、太政大臣としたうえで追号を決め
るのが順当であろう』とのことにございます」
「ふむ、もっともなことだ。これで朝廷の面
目が立ち、民の動揺もないであろう。道春、
大儀であった」
「恐れ入ります」
 こうして、秀忠は江与の眠る、芝の増上寺
に埋葬された。そして追号は、天海の主張を
退け、台徳院となった。
 この追号での働きで、道春には三百俵の褒
美が与えられた。
 天海は、家光が自分から距離をおこうとし
ているのは、道春の入れ知恵だと薄々感じて
いた。
 今度の秀忠の追号の成り行きにより、それ
がはっきりした。そして、天海をさらに不快
にしていたのが、東叡山・寛永寺の近くに建
てられた道春の私塾だった。
 私塾にもかかわらず、尾張の徳川義直が寄
進した先聖殿には、孔子や賢人の像、祭器が
安置され、書庫には、家康が亡くなった時に
駿河文庫から尾張に分配された書物と義直が
居城、名古屋城の城内に建てた蓬左文庫に集
めた書物の中から貴重な書物が膨大な数、移
されていた。
 天海は、江戸の町を風水により、魔物の進
入を防ぎ、吉祥を呼び込むことで、永遠に繁
栄するように整備した。その能力から、道春
の私塾が、風水により寛永寺の影響力を弱め
るために建てられたことはすぐに分かる。
 風水を巧みに利用した天海が、逆に風水で
封じ込められたのだ。
 家康が存命の時なら、このような暴挙は阻
止しただろうが、今は黙って見ているほかな
かった。
(まるで付城だな)
 天海は苦笑いして、自分の構想がくずれ、
影響力が弱められていくことを悟った。

2013年9月16日月曜日

秀忠の憂い

 寛永八年(一六三一)

 前年の大晦日間近に、秀忠の体調が悪化し、
正月の参賀などが取りやめとなった。
 そのたか、江戸の城下は賑わいの中にもど
ことなく物足りない正月を迎えた。
 家光は、秀忠の側を片時も離れず、天海に
命じて病気平癒の祈祷をさせるなど、あらゆ
る手段を講じた。
 病床の秀忠が弱々しい声で言った。
「家光。わしは夢半ばでこの世を去るのは口
惜しい。しかしこれも天命。後は、お前に任
せたぞ」
「父上、なにを弱気なことを申されるのです
か。もう時期に良くなります。お気を確かに
なさってください」
「わしには分かるのじゃ。権現様ほどではな
いが、わしも自分の病ぐらいは分かる。それ
よりも心配なのは、お前と忠長のことじゃ」
 家光の弟、忠長は、駿河五十五万石を領し、
駿府城主となっていた。
「父上、ご心配には及びません。兄弟仲良く
やってまいります」
「いや、それはならん。わしとお前のように
父と子ならば、一方が出れば一方が退くこと
もでき、家臣らも従いやすかろう。しかし、
忠長にはそれは無理じゃ」
「忠長には、私がよう言い聞かせて従わせま
す」
「わしも、そう願っておる。しかし、もしも
忠長がお前に従わぬ時は、遠慮なく処罰せい。
生温い処罰で手をこまねいてはならんぞ。ひ
とおもいにやるのじゃ」
「はい、分かりました」
「お前を将軍として良かった。これも権現様
のお導きだったな。よし、忠長を呼べ」
 しばらくして、秀忠の容態悪化を知った忠
長が、慌てて江戸城に駆けつけた。
「父上、お加減はどうですか」
「おお忠長、よう来てくれた。今は少し良う
なった。心配かけてすまなかったな」
「なにを申されます。父上は私にも天下にとっ
ても大事なお方、長生きして頂かなければな
りません」
「わしはもう家光に後の事は託した。お前に
は兄を助け、この天下安泰が末永く続くよう
勤めてもらいたい」
「はい、分かりました。兄上の足手まといに
ならぬよう精進いたします。ですから父上も
見守っていてください」
「それを聞いて安心した。頼んだぞ」
 この後、忠長は家光と会った。
 家光には稲葉正勝が側につき、忠長には正
勝の弟、正利が側近として側についていた。
「兄上、父上のこと、なぜもっと早く知らせ
てはくれなかったのですか。母上の時もそう
でした。なぜこのように、私を邪険になさる
のか」
「忠長、そう言うな。我らは天下を預かって
おるのだ。天下が乱れることに、もっとも注
意を払わねばならない。忠長は父上、母上思
いだから、知ればうろたえるであろう。それ
を恐れてのことだ。察してくれ」
「それだけでしょうか。私はもっと兄上のお
力になりたいと思っているのです。それなの
に、兄上は私になにも命じられません。私は
空しゅうございます」
「では申すが、そなたは何をしておる。駿河
では、そなたの良からぬ噂が広まっておるぞ」
 それを聞いていた正利が、思わず口を挟ん
だ。
「上様に、お恐れながら申し上げます。忠長
様の噂は根も葉もないこと。忠長様は駿河を
まっとうに治められております」
 正勝が制した。
「無礼であるぞ正利。控えよ」
「まあよい。しかし、今の駿河は権現様が治
められていた。その時よりも良くなっている
という話は聞いたことがない」
 これに忠長が言い訳をした。
「それは……。良い領地を維持することも大
事ではないですか」
「そうだな。まぁ、波風を立てぬようにして
おればよい」
「はっ」
 こうして家光と忠長は、疑念とわだかまり
が残ったまま別れた。
 それからしばらくたった頃、上野と信濃の
国境にある浅間山が噴火し、その噴煙は江戸
にまでたっした。
 浅間山の噴火は過去にもあったが、この時
は、ある噂が流れた。それは、噴火する以前
に忠長が近くで神の使いとされていた猿を狩
りした。その祟りではないかと言うのだ。
 浅間山は富士山に通じる霊山とされていた
からだ。
 家光はすぐに忠長を呼び、問いただした。
「兄上、誤解です。確かに近くの山で猿を狩
りましたが、それは猿が増えて領民が農地を
荒らされ、困っておったからにございます」
「そなたの領地でも領民でもあるまい」
「兄上は以前、我らは天下を預かっておると
申されていたではないですか。誰の領地であ
れ、領民が困っているのを助けるのが、天下
を預かっておる者の務め。ましてや神の使い
と言われておる猿とあっては、領主とて手が
出せませぬ」
「それをお前が独断でやったと申すか」
「お忙しい兄上の手を煩わせたくなかったの
です」
「それが余計なことだと申しておるのだ。こ
のことで家臣はなんと思う。相談事は私を通
さぬでも、お前に言えば事足りる。それどこ
ろか、家臣が独断で何でもやれると思うかも
しれん。お前は私の家臣なのだぞ。お前は家
臣でありながら私を兄上と呼ぶ。それは将軍
をないがしろにしておると受け取られてもし
かたあるまい」
「……。はい」
「おって沙汰する。今後は兄上と呼ぶな。上
様と呼べ。下がれ」
「……。ははっ」
 このことを知った稲葉正利は、兄の正勝や
崇伝に赦免の取り成しを訴えた。しかし、忠
長は甲斐に蟄居を命じられた。
 甲斐は、忠長が初めて領地とした場所だっ
た。

2013年9月15日日曜日

私塾

 寛永七年(一六三〇)

 正月に道春と東舟は、家光から江戸城に呼
ばれた。
 居並ぶ諸大名や天海、崇伝に次いて、初め
て秀忠と家光に参賀を許された。そして、政
務では宗教上の紛争処理を協議する奉行を務
めるなど、その地位を確立していった。
 道春は、忙しい政務の合間にも、家光の供
をして、川越、鴻巣に行き、鷹狩りをして兵
法の実地訓練を教授した。
 東舟は、秀忠が天皇の譲位で気力を失い、
病にふせることが多くなり、その看病にあたっ
た。
 五月に、道春のもとへ京から亀が病になっ
たと知らせがあった。
 急いで京へ戻ってみると女子が誕生してい
た。この時、亀はまだ横になり、辛そうにし
ていた。
 道春は亀を気遣い、しばらく留まって、産
まれた女子を振と名付けた。また、十三歳に
なった三男の吉松が元服し、春勝と名を改め
たのを祝った。
 八月にようやく亀の体調も良くなり、道春
は江戸に向かった。しかしその途中、京に向
かう酒井忠世、土井利勝らと出会った。
 酒井から「道春は、後水尾天皇が譲位して、
明正天皇となる興子の即位の儀に加わるよう
に、家光様から命がくだっている」との伝言
があったので、また京に引き返した。
 明正天皇即位の儀は厳かに執り行われ、そ
の様子を狩野探幽が絵にし、道春が書に記録
して江戸に戻った。
 しばらくして、幕府から道春に上野・忍ヶ
岡にある五千三百坪の土地と、そこに私塾を
建てるようにと、金二百両を賜った。
 以前にも京に私塾を建てる機会はあったの
だが、大坂の合戦が起こり、立ち消えになっ
ていた。
 かつて小早川秀詮の養父、隆景は、下野の
足利学校で学んだことのある僧侶、白鴎玄修
を筑前に呼び、名島城内に学校を設けて、足
利学校と同様の学問を家臣やその子息に教え
させた。
 道春は、ふとそんなことを思い出していた。
 上野・忍ヶ岡といえば、天海が広大な土地
を整備した東叡山が近くにある。それとは比
較にならない狭い土地だが、幕府が私塾を支
援するのは異例のことだった。
 道春は早速、塾舎と書庫を建てることにし
た。すると、家康の九男で尾張の領主、徳川
義直から孔子を祀る先聖殿の寄進があった。
 道春は以前、家康が亡くなり、家光の側に
仕えるようになるまでの間、諸大名や旗本に
呼ばれて侍講をしていたが、義直はその内の
一人だった。しかし、道春には特に寄進を受
けるようなことをしたという記憶はなかった。
 道春は東舟から「天海は孔子の末裔ではな
いか」と聞いたことがある。
(天海殿には、この地に私塾を建てるのは快
く思われていないはず。それを和らげるため
のご寄進だろうか。しかし、義直殿がなぜ)
 道春はなんともいえない奇縁を感じていた。
 ある日、今度は道春のもとに稲葉正勝が、
一人の子を連れてきた。
「先生、この子は、私の家臣、塚田杢助の知
り合いの子で、まだ九歳なのですが、なかな
か賢いのです。ぜひ先生のところで教えを乞
いたいのですが、いかがでしょうか」
 この時、道春は、幕府が私塾を支援し、義
直が先聖殿を寄進したことに、正勝の力添え
があったことを悟った。
「ほぉう。好奇心の強そうな目をしておりま
すな。喜んでお預かりいたします」
 すると九歳の子が挨拶をした。
「私は、山鹿高祐と、申します。以後、よろ
しく、お願い、申し上げます」
「これはこれは、私は道春と申します。一緒
に学びましょう」
 お互いにちょこんとお辞儀をした。
 これが道春と、やがて「忠臣蔵」の赤穂浪
士がもちいた山鹿兵法を説く、山鹿素行との
出会いだった。

2013年9月14日土曜日

天皇の譲位

 和子が天皇を説得して春日局との対面が叶っ
た。しかし、天皇は春日局にあからさまに冷
めた態度をみせた。
「いまさら、そなたに会ってなんになる。私
の父上は、そなたらを最後まで信じて身まか
られた。なのに状況は悪くなる一方ではない
か」

 後水尾天皇の父、後陽成天皇は、小早川秀
詮が幕府に入り、朝廷のために働いてくれる
ものと期待していた。しかし、元和三年(一
六一七)に崩御した。

 春日局が平伏して話し始めた。
「まことにお恐れながら、謹んで申し上げま
す。徳川家が間違ったことをしているでしょ
うか。たしかに、帝への対応は厳しく、神を
も恐れぬ所業に思われるのは仕方のないこと。
しかし、民の暮らしはどうでしょうか。キリ
シタンのような、一部の者たちには、いまだ
辛い日々が続いておりますが、かつての乱世
を思えば、安楽な世になりつつあります。こ
れに波風を立て、再び乱世にすることが、先
帝のお望みだったのでしょうか。病を治すに
は痛みをともないます。たとえ癒えたとして
も、傷となって残ることもあります。それを
恐れて死を待つことは、人の上に立つ者のす
ることではありません。帝は御譲位されれば、
それですむかもしれませんが、上様には到底
出来ぬこと。今はそれを支えるのが私たちの
役目にございます」
「私が、民のことを考えていないとでも申す
のか」
「いえ、民が帝から遠ざかっているのです」
「なに……」
「世が泰平になれば、民は神に何を望みましょ
うか。この泰平が末永く続くこと。それは、
幕府のまつりごとに関わることではないでしょ
うか。キリシタンは幕府のまつりごとを邪魔
しているので排除されるのです。同じように、
朝廷が幕府の邪魔をすれば、民は帝からも遠
ざかりましょう」
「私は、民にとっては必要ないということか」
「いえ。太陽は民が望む望まないに関わりな
く常に照らしており、民の暮らしを邪魔しま
せん。本当に大切なものは、あることさえ気
にならないのではないでしょうか」
「太陽か。では、私のしていることは、太陽
をさえぎる雲か」
「今は民からそう思われているのかもしれま
せん。しかし、雲になるのは幕府の役目。帝
は常に太陽であらねばなりません」
「ならば、私はどうすればよいと言うのだ」
「和子様は、帝を自由にしてさしあげたいと
申されておりました。私は、そのお望みを叶
えてさしあげたいと思っております。もはや
朝廷と幕府は抜き差しならぬ事態になってお
ります。帝は何度も御譲位を幕府に伝えられ
ております。こたびまた御譲位と言われたと
ころで、幕府は本気にはしません。このまま
では、公家らも帝を見放しかねません。ここ
は誰にも告げず、すぐに実行されるしかない
と思います」
「それではなおさら、公家らからも信頼を失
うではないか」
「それでよいのです。公家らが帝の御譲位を
何も知らなかったとなれば、幕府と対立する
きっかけを失います。幕府も、朝廷には何も
言えなくなります」
「急な譲位となれば、それなりの理由が必要。
……やはり病か」
「それがよろしいでしょう。御譲位の後の口
実です。もはや大御所様も強くお留めだてし
ないでしょう」
「それで、家光は」
「上様は、興子様に御譲位されるのであれば、
大御所様を説得できると申しておられます」
「そうでしたか。すでにそちらの手はずは整っ
ていたのですね」
「そうでなければ、私のような者が帝に拝謁
などできるわけがありません」
「そなたは強いな。和子はそなたを見て育っ
たのか」
「いいえ。女は母になれば誰でも強くなるも
のです。子のためら命も惜しみません」
「そのこと、よく覚えておこう」

 十一月

 突然、後水尾天皇は病気治療を理由として、
和子との間に産まれた長女、興子を内親王と
して譲位をした。
 天皇のままでは病気治療できないため、止
むを得ず上皇になるという策を講じたのだ。
 天皇の突然の譲位に、何も知らされていな
い公家たちから動揺が起こった。
 天皇の側近である土御門泰重にも知らされ
ていないことに、京都所司代、板倉重宗はな
す術もなく、江戸に知らせて判断を仰いだ。
 一報を聞いた秀忠は激怒し「帝を隠岐島に
流す」と言い出した。
 家光のもとには稲葉正勝が駆けつけ、秀忠
の様子を伝えた。それを聞いた家光は、慌て
るでもなく、正勝と共に秀忠のもとに向かっ
た。
 まだ怒りが治まらない秀忠は、座敷をひと
り、右往左往していた。
「父上、落ち着いてください。今となっては
どうすることもできません。それより、この
後のことを考えねば」
「これが落ち着いておられるか。わしにこと
ごとく楯突きおって。もう許さん。和子とも
離縁じゃ」
「何を申されます。父上は朝廷と戦をなさる
おつもりか。権現様がお聞きになったらなん
と申されるか」
 秀忠はやっと落ち着き、力なく座った。
「よいですか父上、まだ全てが終わったわけ
ではありません。帝は公家らに何も告げずに
御譲位されたと聞きます。これは帝が我らに
味方し、公家らが孤立したとは考えられませ
ぬか」
「……」
「公家らには、頼るものがこの幕府しかない
のです。今は公家らに手を差し伸べ、恩を着
せて身勝手な帝と離反させれば、朝廷をなき
ものに出来るではありませんか」
「朝廷がなくなる」
「そうです。公家らを飼い慣らす良い機会と
なりましょう」
「ふむ」
「今は、父上の寛大なお心をみせる時です」
「家光、お前はやけに落ち着いておるな。そ
ういえば東舟と道春は今、京におるはず。ま
さかお前、何か謀ったか」
「父上はお歳のせいか、疑い深くなっておら
れますな。東舟と道春は、亡き父の葬儀に行っ
ておるのです。そもそも帝に拝謁など叶いま
すまい」
「それもそうじゃな。では、このことはお前
に任せる。わしはもう疲れた」
「ははっ」
 家光は、秀忠に一礼をすると、チラッと正
勝を見た。すると正勝も一礼をして家光と目
が合い、お互いにニヤッと笑った。

 天皇の譲位で役目を終えた春日局が江戸に
戻った。その後を追うように、しばらくして
東舟、道春も江戸に戻った。
 そして十二月三十日、家光のはからいで、
道春は民部卿法印、東舟は刑部卿法印という、
僧侶としては最高の位を授けられた。
 東舟は、儒学者として僧位を受けることを
ためらったが、道春が働きやすくなることを
考え、しかたなく受けることにした。

2013年9月13日金曜日

皇子の死

 突然、家光が疱瘡を患い、福が懸命な看病
をしている頃、京では、深刻な事態が起きて
いた。
 後水尾天皇と和子の間に産まれた高仁親王
が急死したのだ。その後、九月になって産ま
れた男子もすぐに亡くなった。
 秀忠の落胆は大きく、それにも増して怒り
が沸々とわいてきた。
 皇子が立て続けに亡くなったことに、朝廷
の陰謀と疑う幕府に、今度は天皇が激怒し、
再び譲位する決意をした。

 寛永六年(一六二九)

 病の癒えた家光は、朝廷が幕府から疑われ
て弱気になっているこの時とばかりに、紫衣
着用の勅許の件で幕府に抗議文を出した沢庵
宗彭、玉室宗珀、江月宗玩を処罰するため呼
び出した。
 それを知った天皇は、幕府に譲位する意思
を伝え、沢庵らの処罰無効を訴えた。
 天皇の意向を無視するかのように幕府は処
罰の協議をおこなった。
 崇伝は重い刑罰にするよう主張した。これ
に対して天海は、刑罰としては重いが死は免
れる配流とするように主張した。
 その結果、沢庵宗彭は出羽・上ノ山に配流。
玉室宗伯は陸奥・棚倉に配流。江月宗玩は放
免と決まった。
 この決定は、天皇にも屈しない幕府の姿勢
を示した一方、沢庵、玉室に新しい地での布
教を促すことになり、朝廷から遠ざけるだけ
にとどめたものだ。
 天皇は、譲位する意思は固かったものの、
和子がまた身ごもったことで、幕府の朝廷へ
の圧力が薄れたため、譲位は子の誕生を待っ
てからとなった。
 八月に和子が産んだ子は、女子だった。
 産まれた子が男子でなければ、仮に和子の
産んだ女子が天皇になったとしても、いずれ
徳川家の血縁が排除されてしまう。
 秀忠はなおも諦めきれず、幾度となく苦難
を跳ね返した強運の福を和子のもとに送り、
男子誕生の望みを託した。
 無位無官の福は、公家の三条西家の猶子と
して天皇に拝謁することになり、この時、春
日の号を賜わった。
 こうして福は春日局として京、御所へ向かっ
た。
 天皇は、決して春日局を喜んで迎えたので
はなく、秀忠の強引なやり方に、表向きは従
うように振舞い、密かに譲位の準備を進めて
いた。

 これより先、道春に悲痛な出来事が立て続
けに起こった。
 六月に、小早川秀詮を長男、信勝として受
け入れてくれた東舟の父、林信時が老衰で逝
き、その数日後に、後継者として頼もしく見
守っていた道春の長男、叔勝が病死したのだ。
 江戸で叔勝の葬儀を済ませると、すぐに京
に向かい、すでに信時の葬儀を済ませて泣き
つぶれていた東舟を励ました。
 その京では、御所に入った春日局が和子に
会い、体調を気づかった。しかし、和子は不
満をあらわにした。
「福。我が子を亡くして悲嘆にくれておられ
た帝に対して疑いをもつなど、むごいなさり
よう。これは父上がされているのですか、兄
上がされているのですか」
「お怒りはごもっともにございます。しかし、
大御所様のお嘆きもご理解ください。あまり
の落胆に混乱されていたのです。上様は病に
お倒れになり、大御所様をお止め出来なかっ
たのです」
「そのような言い訳。もう私にはどうするこ
とも出来ません。せめて帝を自由にしてさし
あげたい」
「そのことで私は参ったのです。どうか、帝
に会えるようにお取り計らいください」
 春日局の意外な応えに、和子は一るの望み
を託すことにした。

2013年9月12日木曜日

復帰

 越前では領主の松平忠昌が、閉居した稲葉
正成の嫌っていた北ノ庄で奮闘していた。
 忠昌はまず、地名の北ノ庄には敗北を意味
する「北」があるため「福居」と改めた。そ
れから、家臣の信頼を得て、雪深いために起
きる災害を最小限に食い止める整備の政策を
優先して行った。
 忠昌は、その成果を正成に見に来るように
と誘った。
 しばらくしてやって来た正成を忠昌は喜ん
で出迎えた。
「上様、この地を見事に治められましたな。
私が以前、来た時とは大違いにございます。
これはまさに福の神が居ますな」
「正成にそう言われとうて、ここまでやって
きたのじゃ。しかし、まだまだ難題が多い。
正成の力がどうしても必要なのじゃ。戻って
きてはくれぬか。わしを見捨てんでほしい」
「身にあまる過分なお言葉、恐れ多くござい
ます。永く閉居して、ご覧のように身体は早
老し、知恵も枯れはてました。これでは上様
の足手まといにこそなれ、なんのお役にも立
てません。なれど、我が子の正勝が家光様の
側にお仕えしており、家光様との絆を深める
ことができるやもしれません。この身は上様
の下足番にでもしていただければうれしく思
います」
「あはははは。正成にはかなわんな。何もか
も見抜かれておる。そうじゃ、正勝殿との絆
を深めたいのじゃ。下足番か。これは一本と
られたわい」
「上様、私こそご無礼いたしました。けっし
て上様のお心を試す意図はございませんでし
た。上様が私よりも、はるか先を見ておられ
て、少々ひがんでおったのです」
「ならばわしに仕えるな」
「はっ、もう二度と上様のお側を離れはいた
しません」

 一方、家光には頭の痛い問題が起きていた。
 後水尾天皇が禁中並公家諸法度にある「朝
廷が高徳の僧侶や尼僧に紫衣(紫色の法衣、
袈裟)を幕府の許しがなく与えることを禁じ
る」とあるのを破り、僧侶、十数人に紫衣着
用の勅許を与えたのだ。
 天皇は、和子が男子、高仁親王を産んだこ
とで、将来、朝廷が徳川家に乗っ取られるこ
とが確実になり、最後の抵抗に出たのだ。
 これに対して家光は、京都所司代の板倉重
宗に、法度違反の紫衣着用の勅許をすぐに無
効とするように命じた。
 すると今度は、沢庵宗彭や玉室宗珀、江月
宗玩などの高僧が、天皇の行ってきた慣例を
守ろうと抗議文を幕府に出してきた。
 キリシタンに続き、既存の宗教界までも敵
にまわしかねない事態に家光は、結論を急が
ず、慎重に対処する姿勢をみせ、しばらく間
をおくことにした。

 寛永五年(一六二八)

 道春は、家光の側にいることが多くなり、
二月の川越の巻狩りや四月の家康十三回忌に
日光社へ参拝するのにも同行した。
 そんな八月のある日、道春のもとに、青ざ
めた顔をした稲葉正勝がやって来た。
「正勝殿、お勤めに熱心なのは良いことです
が、少々お疲れのご様子。お顔の色が変です
ぞ。少しお休みになられては」
「道春様、父上が、身まかりました」
「えっ」
「江戸に来ていた父上が、私に後のことは頼
むと言い残し、十七日に逝きました」
「……………………」
「何かあれば道春様に教えを乞えと」
「…………………まだ早すぎる。わしは……
まだ……恩を返しておらんのに…………」
「道春様、どうか母上をお守りください。父
上は最後まで母上のことを気にかけておりま
した」
「……分かりました。正勝殿、そなたは強い。
正成殿の分も共に励みましょうぞ」
「はい」
 稲葉正成の埋葬は、天海が整備していた上
野の東叡山に建てられた現竜院と決まった。
 その葬儀に現れた松平忠昌は、正成の突然
の死に言葉もなく、ただ涙がとめどなく流れ
ていた。
 道春はこれを機に、十六歳となった長男、
叔勝を江戸に呼び、自分の後継者として側に
おくことにした。
 叔勝は一通りの儒学をすでに学び、実務の
経験をつむことに励んだ。

2013年9月11日水曜日

江与の死

 江与が病に倒れたことは、事前に秀忠へは
伝えられていた。しかし病状がそれほど深刻
なものだとは思ってもみなかった。それだけ
に秀忠の落胆はひどく、奈落の底に突き落と
されたように顔をゆがめて泣き崩れた。
 江与の死は家光にも知らされ、すぐに秀忠
のもとへ向かうと、そこには廃人のようにう
なだれた姿があった。
「父上、気をたしかになさってください」
「わしはもうだめじゃ。何もかも終わった」
「父上、そのような気弱なことをおっしゃら
ず。このこと、和子に知られてはもうすぐ産
まれるお腹の子に障ります」
「おお、そうであった。しかし、どうすれば
よいのじゃ」
「父上は何事もなかったようにお振る舞いく
ださい。私が政務を理由に江戸へ戻り、母上
のもとに参ります。父上は、和子の子が産ま
れてからお戻りください」
「ふむ、お前に任せる。おお、そうじゃ、国
松はどうする。あれにも知らせねば」
 家光の弟、国松は、元服して名を忠長と改
め、駿河五十五万石の藩主として二条城に来
ていた。
「いえ、お待ちください。和子は感が良いの
で国松までいなくなれば、母上に何かあった
ことを察しましょう。国松も母上が身まかっ
たことを知れば狼狽し、騒ぎ立てるかもしれ
ません」
「そ、そうじゃの」
「母上のことは、すべて私にお任せいただき、
父上は和子が男子を産むことだけお祈りくだ
さい」
「あい、分かった。お江与も、わしに力を貸
してくれるかもしれんな」
「和子の産む子は、母上の生まれ変わりとな
る子かもしれません」
 秀忠は家光の言葉に勇気づけられ、正気を
取り戻した。
 家光は、一通りの行事を終えると、政務を
理由に少数の家臣だけを引き連れて江戸に戻っ
た。そして、江戸城・西の丸の江与のもとに
向かった。
 そこには江与が、布団に全身をくるまれ、
外から見えなくなっていた。
 すでに日がたっていたため、亡骸の腐敗が
ひどく、病がうつる危険もあったからだ。
 そこで家光は、やむなく徳川家では初めて
の荼毘にふし、菩提寺である芝の増上寺に埋
葬することを決めた。
 この時、天海は江与を新しく建立した上野
の寛永寺に埋葬することを願っていた。それ
は、江与を埋葬すれば、いずれ秀忠も埋葬す
ることになり、寛永寺が徳川家の菩提寺にな
るからだ。しかし、家光が迷うことなく増上
寺と決めたことに、何者かの入れ知恵で家光
が自分と距離をおこうとしていることを悟っ
た。
 その頃、道春は、江与が死んだことなど知
らされることもなく、京に留まり、東舟らと
忙しい雑務をこなす合間、自宅に戻った。
 初めて会う四男、右兵衛は、三歳になって
いたが身体が弱く、まだ歩くことができずに
いた。その上、言葉も喋らなかった。
 心配する亀をよそに道春は、右兵衛を抱き
かかえた。
「三歳になっても歩かなかった伝説の蛭児は、
夷三郎という福神になったのだ。もしやこの
子も大器晩成なのかもしれんぞ」
 そう言って笑い、亀を元気づけた。しかし、
それから間もなく、亀の父、荒川宗意が死ん
だという知らせがあった。これには道春にも、
泣き続ける亀を慰める言葉が見つからなかっ
た。

 秀忠は、十月になっても和子が子を産む様
子がないので、一旦、江戸に戻ることにした。
この時、道春らにも内密に江与の死が知らさ
れた。
 道春は、江戸に戻る秀忠を見送り、一部の
残った家臣らと雑務をしていた。
 十一月十三日になって、和子が待望の男子
を産んだ。
 男子誕生はすぐに秀忠に知らされ、江与の
死で落ち込んでいた秀忠を奮い立たせた。
「ようやった和子。これでわしは帝の祖父。
父上さえも成し遂げられなかった天上人になっ
たぞ」
 道春が江戸に戻って、年が明けた寛永四年
(一六二七)には、家光が江与の葬儀をそつ
なく執り行い、秀忠から信頼されるようになっ
た。
 これで家光が本格的に幕政を取り仕切る下
地が整った。そして、道春にも重要な政務に
かかわる機会が増えてきた。

2013年9月10日火曜日

戦の備え

 寛永三年(一六二六)

 家光が二月早々に川越、鴻巣で巻狩りをす
るのに、道春もお供を命じられた。
 ほとんどの家臣が獲物を追い立てに向かい、
馬上の家光と道春はその様子を眺めた。
「道春、キリシタンは九州にまで追い詰めら
れたが、抵抗は衰えていないようだ。そこで
水野守信が踏絵という物を考えてな」
「踏絵」
「そうじゃ。キリシタンが信仰している聖者
の絵を踏ませることでキリシタンかそうでな
いかを見極める物だ」
「なるほど、しかしそれではキリシタンでも
その絵を踏めば、遁れられるのではないです
か」
「そうだ。私はキリシタンであっても、その
信仰を他の者に流布せず、自分たちの内に隠
すのであれば、それでよいと思っている。そ
れでも絵を踏まぬということは、キリシタン
である以前に、幕府に対する謀反人というこ
とだ」
「その踏絵を使えば、キリシタンでない者に
拷問などしなくてすむということにもなりま
すな」
「そうなのだ。そこで、守信を長崎奉行にす
ることにした。しかしこれですべてが治まる
とは思えない。いずれ戦になるやもしれん。
道春は以前、戦の前にこうした巻狩りで兵の
訓練をしておったのだろ」
「はっ、左様にございます。それで私にお供
を」
「そうだ。それを教えてもらいたいのだ。私
に兵を統率する器量があるかも知りたいのだ」
「それは、上様にはすでに備わっておられま
す。兵を動かすには、まず目的を明確にし、
兵を信頼して自由に行動したくなるようにす
ることにございます。守信殿の考えを取り入
れ、長崎奉行にされたことはまさにこれと同
じにございます」
「道春にそう言われると自信がわく」
「恐れ入ります。上様、あとは馬を乗りこな
すことにございます」
「よし分かった。着いて参れ」
 家光が馬を走らせると、道春もその後に続
いた。
 それから家光は、柳生宗矩から剣術の指南
を受け、新陰流兵法を会得した。さらに道春
から「孫子諺解」「三略諺解」「四書五経要
語抄」など兵法や帝王学の書を習い、戦に備
えた。
 七月になると、家光は江戸を発ち、京に向
かった。これは、後水尾天皇が二条城に行幸
するのに先立つもので、前年に新しく出来た
淀城の視察も兼ねていた。
 その家光に道春も同行していた。
 秀忠は、それより先の五月に江戸を発ち、
すでに二条城に入っていた。
 今すぐにでも、天皇の中宮となった和子に
会いたかったからだ。
 秀忠には、東舟が同行していた。
 和子は、前年の九月に二人目の女子、昭子
を産み、また身ごもっているとの知らせがあっ
た。
 家光が入った新しい淀城は、かつて豊臣秀
吉の側室、淀の居城があった対岸に、松平定
綱によって築かれた。
 そこは、桂川、宇治川、木津川が合流する
中州を干拓し、廃城となった伏見城の廃材や
二条城の改築にともない不要となった天守が
移築されていた。
 川を自然の外堀として、実戦を意識した堅
固な城となり、泰平の世には似つかわしくな
かった。
 家光は、道春らとしばらく淀川で舟遊びを
するなどして、天皇の行幸する日を待った。
 天皇は、和子を受け入れ、愛してはいたが、
秀忠を恨む気持ちが消えたわけではなかった。
 二条城への行幸は、秀忠に屈服するような
暗い気分にさせた。それを察した和子は、密
かに秀忠のもとに手紙を送り、天皇の面目が
保たれるように訴えた。そこで秀忠は、征夷
大将軍である家光が、御所まで天皇を迎えに
行くように計らった。
 これでは天皇も受けざるおえず、和子と三
歳になった興子を伴った行幸は、三千数百人
にも及ぶ諸大名の警護の中、無事に行われた。
 秀忠は、和子の姿が見えると父親の顔にな
り、天皇には気にもとめず、和子に駆け寄っ
た。
「和子、達者であったか。おお、興子姫も大
きくなられましたな。それに和子、また子を
身ごもったそうじゃな。でかしたぞ」
「父上もお元気そうで、母上はどうなさって
いますか」
「元気じゃ、元気じゃ。お江与も会いたがっ
ておったが、子が産まれたら会いに来させよ
うと思うておる」
「そうですか。それより、帝にご挨拶を」
「おお、そうであったな」
 秀忠は、天皇に型通りの挨拶をして、気ま
ずくなる前にすぐ離れた。
 二条城で行われたご御宴は、四日間に及ん
だ。その間、道春は二条城と淀城を行き来し
て雑務をこなした。
 そんな中、悲しい知らせが届いた。
 秀忠のもとに、正室、江与の死が伝えられ
たのだ。

2013年9月9日月曜日

陽明門

 日光の東照社では陽明門が出来上がってい
た。その黄金をふんだんに使い、優れた匠の
技を結集した荘厳な造りは、家康が旗印にし
ていた「厭離穢土、欣求浄土」を体現してい
た。

 この世はけがれ、
   捨て去るべきもの。
  極楽浄土を
   目指さなければならない。

 それが人の心に伝わるかのように、噂を聞
いた人たちが次第に参拝するようになった。
 天海は、人々がキリシタンの弾圧により、
何にすがって生きればいいのか見失っている
と感じていた。その迷いを家康が受け止める
神だということを強く示すために、江戸を東
の京とすることを構想していた。
 すでに秀忠からは、上野に寺を築く敷地を
与えられていたので、そこに本坊を建てるこ
とを急いだ。

 寛永二年(一六二五)

 道春は、正月に弟の東舟と共に崇伝に会っ
た。
 一通り年賀の挨拶を済ませると、崇伝が話
し始めた。
「日光には大勢の見物人が詰めかけておるそ
うじゃ。天海殿の狙いどおりじゃな。それに
気をよくして、今度は寺を築いておるらしい。
まあ、これでしばらくは政務に口出しはせん
と思うが、気になるのは家光様が天海殿に心
酔しておることじゃ。道春殿はどう見ておら
れる」
「はい。上様は、天海殿が権現様の生前のご
様子をよくご存知なので、それでよくお話を
聞いておられるだけではないかと思います」
「それだけならば良いが、相手は天海殿。権
現様の名を借りて、自分の思い通りに操る術
も心得ておろう」
「それは考えられますが、今はまだ、大御所
様が実権を握っておられます。上様が政務に
かかわられるようになるのはまだ先のことで
す。東舟はどう思う」
「兄上の言われるように、今は大御所様がほ
とんどの政務をされていますが、しかし、最
近はよく家光様とお会いになることが多くなっ
ているように思います。政務を任されるよう
になるのは意外と早くなるかもしれません」
 崇伝の顔色がくもった。
「それはまずい。今のうちに家光様と天海殿
を引き離すようにしなければ。道春殿、そな
ただけが頼りじゃ」
「はい、できる限りのことはやってみます」
 三人は不安を打ち消すように、しばらく詩
に興じて別れた。
 天海は本坊が建立されると、年号をとり寛
永寺と名づけ、京の比叡山に対する東叡山と
して世間に浸透させていった。

 ある日、家光のもとに、長崎代官、末次平
蔵政直から書簡が届いた。その内容から、道
春が呼ばれた。
「先生、明の欽差総督から抗議の書簡が届い
ているのです。先生は以前、明の商人からの
抗議に返答を書き、国難を救ったと聞いてお
ります。こたびもよろしくお願いいたします」
「はっ、それでは書簡を拝見いたします。ほ
ほっ……なるほど、これは以前と同様、わが
国の者が明の商船を襲っておるということで
すね。わが国の法令は以前にも増して厳格に
なり、監視も厳しくしております。今、明の
国情は乱れ、明の暴徒が、わが国に来ておる
と聞きます。思うに、その暴徒がわが国の民
に成りすまし、わが国から買った武器を使っ
て明の商船を襲っておるものと思われます。
まずは、明の国情を良くし、法令を厳格にし
た上で、わが国と協力して、これら暴徒を取
り締まるのが筋であることを返答したいと思
います。いかがでしょうか」
「さすがわ先生、それでよろしくお願いいた
します。それから、私は近いうちに日光に参
ります。先生もご同行ください」
「ははっ」
 道春はすぐに返書を起草した。そして八月
になって家光の日光・東照社への参拝に同行
した。
 家光は陽明門の前で立ち尽くした。
「これは聞きしに優る出来栄えだな。これで
こそ権現様の廟にふさわしい」
 道春もその見事さに声を失っていた。
「道春先生、道春先生」
 道春は慌てて、家光の側に行き、小声で言っ
た。
「上様、大勢の前では道春とお呼びください」
「分かった。道春、これが、わが国の匠たち
の技。他国にも負けまい」
「負けぬどころか、このような立派なものは
他国にはございませんでしょう」
「ご老体の天海が、権現様のために心血注い
でいたそうだからな」
「そうでしょう、そうでしょう。権現様と天
海殿は一心同体のようなもの。いずれキリシ
タンが一掃されれば天海殿の世となりましょ
う」
「それはどういうことですか」
「いや、これは失言でした。もちろん天下が
天海殿のものになるのではなく、宗教が統一
されると申し上げたかったのです」
「それでは天海殿の力が強くなり過ぎるとい
うことですか」
「そうならないとも限りません。これを見れ
ば、他の宗派は陰が薄くなりましょう」
「しかし、いまさら止めろとは申せん」
「止める必要はありません。上様を惑わせる
ことを申し上げ、大変失礼いたしました。た
だ、何事も中庸を保たれることが肝要かと」
「そうだな。キリシタンのこともある。いや、
ご忠告、ありがたくお受けいたします」
「恐れ入ります」

2013年9月8日日曜日

貿易の暗雲

 秀忠のもとには残念な知らせが入っていた。

 元和九年(一六二三)十一月十九日

 後水尾天皇と和子の間に初めての子が誕生
したが、女子だった。
「興子と名づけたか。わしも長い間、男子に
恵まれなかった。和子もその血をひいたか。
まぁよい。とにかく帝とは仲良うしとるのだ
から」
 秀忠はそう言って自分を慰めていた。そし
て、キリシタンの弾圧に精力を注いだ。
 その弾圧は日増しに強くなり、貿易にも影
響していた。
 平戸のイギリス商館が閉鎖したのだ。
 イギリス商館は、先に開設していたオラン
ダ商館に関わった三浦按針ことウイリアム・
アダムスが、その開設にも尽力していた。そ
のアダムスは、三年前に病で亡くなっていた。
 閉鎖した表向きの理由は、オランダ商館が
安価な商品を取り扱っていたのに対し、イギ
リス商館は高価な商品を取り扱っていたので、
キリシタン弾圧の余波で売買が減り、閉鎖す
ることになったということだが、多額の売掛
金を残しての閉鎖は、幕府の圧力があったと
誰の目にも明らかだった。
 オランダ商館は、布教活動をしないという
約束を幕府と交わし、かろうじて残ったが、
その行動は次第に制限されていった。
 思えば、アダムスが乗っていた東インド貿
易の船、リーフデ号が日本に漂流して来たこ
とで、関ヶ原の合戦が始まり、戦の姿を大き
く変え、二度の大坂の合戦では、必要以上に
多くの人を殺す過大な兵器が外国からもたら
された。それを今、キリシタンの弾圧という
形で消滅させようとしている。
 元号が変わった寛永元年(一六二四)には、
マニラから日本にやって来たスペインの商船
に、宣教師が隠れて乗っていたことが分かり、
幕府はスペイン船の来航を禁止した。
 その一方、家光が征夷大将軍になったこと
を祝賀するためにやって来た朝鮮通信使、三
百名を受け入れた。
 家光は、江戸で朝鮮通信使と対面して良好
な関係を保った。
 道春も朝鮮通信使への書簡を起草する崇伝
の手伝いをした。また、その合間に副使の姜
弘重が、春秋館の学士ということを聞き、道
春が問答を行って、日本の学問が優ってきて
いることを実感した。
 道春が江戸にいる間、京の自宅で四男が誕
生した。
 亀は、次男の長吉が病死した傷心も癒え、
育児に専念した。
 しばらくして、道春から届いた手紙に亀の
身体をいたわり、子の様子を気にかける言葉
と共に「子の名は右兵衛」と書いてあった。

2013年9月7日土曜日

家光の側近

 征夷大将軍、家光のもとに集められた側近
には、家康の代から駿府の勘定頭として幕府
の財政政策を受け持ち、天領の管理などもし
て、今も大きな影響力のある松平正綱。
 江戸の勘定頭として財政政策、天領の管理
をし、佐渡奉行をしている伊丹康勝。
 家光の兵法師範となった柳生宗矩。
 関ヶ原の合戦以来、家康から信頼され、秀
忠にも重用されている高力忠房。
 家康が側室とした町人の娘、茶阿に産ませ
た子、松平忠輝の養育をした皆川広照。なお、
広照は家康の代に家老にまでなったが、秀忠
により、忠輝が伊勢・朝熊山へ配流となった
時、養父として責任をとらされ改易されてい
た。今は高齢のため江戸城に登城する時には
輿に乗ることを許された。
 家康、秀忠に仕え、二度目の大坂の合戦で
は、大坂城を大砲で攻めて戦果を挙げ、今は
御書院番頭をしている牧野信成。
 家康が改葬された日光東照社の造営を奉行
し、その後、秀忠に小姓組番頭として仕えて
いる秋元泰朝。
 京都所司代だった板倉勝重の次男で、妻が
稲葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にある板
倉重昌。
 江戸町奉行の堀直之と加賀爪忠澄は、二人
で月番交代の務めをしている。その直之の役
宅が、呉服橋にあったので北町奉行と呼ばれ、
忠澄の役宅が、常盤橋にあったので南町奉行
と呼ばれていた。
 そして、毛利秀元もいた。
 秀元は、毛利輝元の養子となり、慶長の朝
鮮出兵では右軍の総大将をつとめ、関ヶ原の
合戦では南宮山に吉川広家、安国寺恵瓊らと
共に布陣した。その後、長門の長府藩主とな
り、本家の幼い秀就を補佐して徳川勢として
大坂の合戦にも参戦した。
 この時、豊臣勢として参戦した毛利勝永は、
秀頼に忠義を貫いたということで真田幸村と
共に英雄扱いされ、徳川の世となっても語り
草になっていた。そのため、秀元が幕府から
疎まれることはなく、家光の側近となること
ができたのである。
 やがて道春も呼ばれ、側近の一人としてそ
の真価が問われる時がきた。
 道春が家光のもとに出向くと、老中となっ
た稲葉正成の長男、正勝も座っていた。
 正勝は、家光に幼い頃から仕えていたため、
兄のように頼られ、父、正成にも劣らない聡
明さで激務をこなしていた。
 道春は正勝に軽く会釈して、家光に平伏し
た。
「こたび上様におかれましては、征夷大将軍
への補任、おめでとうございます」
「ふむ。これからも先生にはお知恵を拝借し
たい。よろしくお願いいたします」
「ははっ。上様、どうか道春とお呼びになり、
何なりとご命じください」
「まだ慣れません。そのうちに。ところで、
私は将軍になったとはいえ、当面は父上がな
にごともなさるであろう。天海の申すには、
父上のまつりごとは陰。だから私には陽のま
つりごとをするようにと。そこで、権現様を
お祀りしている日光の東照社を新しくしよう
と思う」
「お恐れながら、上様。東照社はまだ出来て
間がないと思いますが」
「分かっています。権現様が小堂でよいと言
い残されたことも知っております。しかし今、
民はこの世がどうなるのかを案じて、不安を
抱えています。それを少しでも和らげ、良き
世になることを示さねばなりません」
「それが上様の陽のまつりごとなのですね」
「そうです。ですから先生にも、かつて社寺
を復興された時のお知恵を拝借したいのです」
「そのことは」
「福が正勝によく話をしていたそうです。備
前でのことを」
「そうでしたか。しかし、私は家臣に任せて
いただけのこと。そちらにおられます正勝殿
の父、正成殿のような良い家臣に恵まれてい
ただけです」
「ということじゃ、正勝。そなたにはまた仕
事が増えるが、天海と相談してよろしく頼む」
「ははっ」
「私も微力ながら、お力になれることがあり
ましたら、精一杯、勤めさせていただきます。
正勝殿、どうかよろしく、お願い申し上げま
す」
「それは心強い。こちらこそ、お願い申し上
げます」
 その後、家光の命により、各地から名だた
る匠が日光に集められ、東照社のかつてない
規模な改築が始まった。

2013年9月6日金曜日

将軍、家光

 道春は、家光と会ったことを報告するため
秀忠のもとに向かった。
「どうであった竹千代は」
「しばらくお会いせぬ間に凛々しくなられて、
お話をお伺いしていますと、まるで権現様と
いるように感じました」
「父上と」
「はい。権現様も、よく上様のことを心配し
ておられましたが、若様も上様のことをこと
のほか心配されているようです。もちろん、
上様がどのようなお気持ちかは若様には分か
りませんから、的外れな心配ではあるのです
が、子は子なりに考えるものなのです」
「わしのことより、自分の行く末を心配すれ
ばよいものを」
「それもよくお考えになられているように思
われます。かつて、平家は公家のような暮ら
しをし、民の貧しい暮らしをかえりみようと
もしませんでした。そのため源氏に味方する
者が増えたのです。今の上様のなさりようが
それに似ておるのではないかと。若様は民の
立場になって考えておられるようです。これ
は権現様もそうでした」
「わしのやり方が間違っていると申すのか」
「いえ、そうではありません。一方に偏って
はならないということです。公家のことも大
事なら民のことも大事。キリシタンを処断す
るのならキリシタンでない民は安楽にする。
中庸ということです。すでに上様と若様が役
割分担をする時期にきているのではないでしょ
うか」
「竹千代に、その器があると申すか」
「よくよく若様とお話になられてはどうでしょ
うか。きっと上様のお心に通じる若様となら
れていることに気づかれると思います」
「そうであろうか。まあ、考えておこう」
 秀忠は、しばらくして家光に会った。そし
て、政務についてもお互いによく話をするよ
うになった。
 家光も秀忠の考えをよく聞き、その意志に
そうように努めた。

 元和八年(一六二二)

 長崎では、キリシタンの大量処刑が実行さ
れ、キリシタンではない民衆の間にも、秀忠
への不満と暮らしへの不安が広がった。
 そうした中で突然、秀忠は、家光に征夷大
将軍の座を譲ることを決めた。

 元和九年(一六二三)

 家光は、六月に京・伏見城に秀忠と向かっ
た。そして、二人は七月に後水尾天皇と和子
に対面し、家光は征夷大将軍の宣下を受けた。
 天皇は、秀忠に対する怒りが冷めてはいな
かったが、心が打ち解けた和子の手前、気持
ちをあらわにすることはなかった。
 しばらくして秀忠、家光は江戸に戻った。
 大御所となった秀忠は、江戸城の本丸を出
て西の丸に移り、家光が西の丸から本丸へと
入れ替わった。しかし、政務の実権は依然と
して秀忠にあり、家康の大御所政治を継承し
ていた。
 民衆は、若い将軍、家光に新しい時代への
期待を感じたが、その陰で、秀忠のキリシタ
ン弾圧は本格的になっていった。
 この頃、京から前の関白、鷹司信房の娘、
孝子が家光の正室となるため、江戸城、亜の
丸に入った。
 孝子の正式な輿入れは十二月と決められて
いた。
 その一方で、福は本丸の奥御殿を取り仕切
る役目を命じられ、正室の女中になる娘を武
家や町人から集めた。そして自らも、密かに
町人の娘を自分の部屋子として集めていた。

 福の躍進とは対照的に、稲葉正成には試練
が待ち構えていた。
 正成が仕えている松平忠昌の兄、忠直は、
以前から素行の悪さを秀忠に目をつけられて
いた。
 秀忠は、少しでも家光の邪魔になる者は身
内でも許さないという見せしめもあり、忠直
を配流にした。そして領地を忠昌に移封とす
る命が下った。
 その領地は越前・北ノ庄だった。
 北ノ庄は、かつて豊臣秀吉に抵抗していた
柴田勝家が所領とし、合戦の結果、北ノ庄城
で織田信長の妹、お市の方と自刃した。その
後にあった慶長の朝鮮出兵で、総大将として
戦った小早川秀秋が、戦功を挙げたにもかか
わらず秀吉の怒りをかい、筑前から国替えさ
せられたという因縁の地だった。
 忠昌にとっては、越後・高田の二十五万石
から五十万石への大きな飛躍だった。しかし
正成としては、雪深いへき地への左遷としか
思えなかった。
 もしや自分が秀秋の家臣であったことや、
忠昌の所領をわずか四年で増大させたことに、
秀忠が脅威を感じ、江戸から遠ざけようとし
ているのではないかと不安に思った。
 正成は意を決して、忠昌のもとに出向いた。
「正成、浮かぬ顔をしておるが、どうした」
「はっ、こたびの国替え、私は喜べませぬ」
「なぜだ」
「北ノ庄は、石高加増とは申せ、その地は雪
深く、江戸から遠ざけられております。また、
このように度々国替えさせられるのは、殿の
お力をそぐのが狙いではないかと」
「それは正成のかんぐりだ。上様は、私の力
を認めておられる。だからこその国替えと私
は思っておる。それに、かつて権現様も秀吉
公より、荒地だった江戸を賜り、今のような
繁栄の都を築かれた。私も北ノ庄をそのよう
にしてみたい」
「そのお考え、ご立派にございます。私は恥
ずかしい。さもしい疑念を抱くような私が、
殿のお側にいることで災いとなっては、死し
ても償うことはできません。どうかお暇をい
ただきたく、お願い申し上げます」
「それはならん。正成がいてこその私ではな
いか」
「もったいなきお言葉にございます。すでに
私などいなくても、殿は立派に成し遂げられ
ましょう。私はそれを遠くで見守っておりま
す」
 忠昌は強く説得したが、正成の意思は固く、
閉居し、忠昌が北ノ庄に旅立つのを見送った。

2013年9月5日木曜日

天下泰平の道

 家光は、以前からお忍びで城下町を観て周
り、民衆の暮らしぶりを知っていた。その体
験から、自分の気持ちを道春に正直に話し始
めた。
「私は民の生活を見聞きするにつけ、天下泰
平が民にまで行き届いていないことを知った
のです。このまま私が公家の姫を迎えれば、
公家と武家だけが豊かになり、貧しい民の不
満はやがて騒乱の芽となりましょう。和子が
帝と結ばれたのなら、私は民と結ばれるのが
天下泰平を万民に行き渡らせることになると
思うのです」
「若様のそのお考えは大変良いことにござい
ます。しかし、上様がお知りになれば、世継
ぎどころか切腹をご命じになるやもしれませ
ん」
「その覚悟はできております。私は、権現様
が築いた天下泰平の道が父上のしていること
で断たれそうになっていることを死をもって
訴えるつもりでいます」
「若様、そのようにことを急いではなりませ
ん。お福殿はこのことを知っておられたのか」
 福は表情も変えず言った。
「はい。存じておりました」
「知っておって、そのようにのん気な顔を」
「竹千代様は、私が命に代えてお守りします。
すでに手はずは整いつつあります」
「それはどのような」
「それは、今はお知りにならないほうが良い
と思います。道春様には、竹千代様のお考え
を上様に伝えないでおいてほしいのです」
「当然です。伝えられるわけがないでしょう」
 すると家光が笑を浮かべて言った。
「先生、それを聞いて安心しました」
「しかし、若様、命を懸けるなどもってのほ
かですぞ。命を粗末にしてはなりません」
「分かっております。それぐらいの覚悟がな
ければ、父上を動かせないと思うだけで、本
当に命を絶つ気はありません」
「それを聞いて安心しました。では、キリシ
タンの処断について上様に反発しておられる
のも、民を心配してのことなのでしょうか」
「そうです。なぜ父上は、あのようにキリシ
タンを苦しめ、殺すのか。キリシタンと疑わ
れるだけで拷問を受けると聞いています。そ
んなやり方では民の心が離れてしまいます」
「若様のおっしゃるとおりです。しかし、上
様のお立場もお察しください。本来なら、こ
の地にキリシタンを受け入れてはいけなかっ
たのです。かつて織田信長公が、天下布武の
名のもとに、キリシタンの持ち込んだ鉄砲や
知恵を手に入れるため、その教義の意味を深
く考えず受け入れました。それが国中に広ま
り、戦の形を変えてしまいました。後に関白
となられた豊臣秀吉公がそれに気づき、禁教
令を出しましたが時すでに遅く、諸大名がキ
リシタンの洗礼を受けるほどに深く入り込み、
政務にも影響を与えるようになりました。そ
のキリシタンは、人には愛せよと申しますが、
側室を儲けることを良しとせず、自分たちの
神だけを信仰するように求めております。こ
れには八百万の神を愛することを拒むという
矛盾があり、そのことを隠して民を欺こうと
しております。これでは、正しき民と騙され
た民との間で対立を深め、この地に争いを持
ち込んで疲弊させ、共倒れになったところを
植民地にするのではないかと疑われましょう。
そうでなくてもキリシタンは、大砲や火箭の
ような、多くの将兵を一瞬で殺す武器を持ち
込んでおります。これらがキリシタン信者の
手に渡り、知らず知らずのうちに広まれば、
先の大坂の合戦とは比べものにはならない無
残な大戦となりましょう。この地の者は全て
死にます。古来より『災いは芽のうちならば
手でつまんで取り除くことができるが、大樹
に成長すれば容易に切り倒すことはできない』
と申します。上様は大樹にまでなったキリシ
タンを倒さなければならなくなったお立場な
のです」
 家光はうなずきながら聞いていた。
「しかし、それにしても女、子まで殺してい
ると聞きます」
「それだけ根深いのです。これは疫病のよう
に、人から人へうつる病のようなものなので
す。心を侵され、治すことができないとなれ
ば、子であろうと殺すしかないのです」
「では、まだ天下泰平とは言えぬということ
ですね」
「その総仕上げが必要なのです。民を苦しめ、
残忍な行いになっていることを上様だけの所
業とするのは誤りです。これは時の巡り合わ
せなのです」
「分かりました。私も、それを引き継がねば
ならぬということですね」
「もしかすると上様は、若様に将軍の座を譲っ
て、それをなそうとされているのかもしれま
せん。かつて、権現様も上様に早くから将軍
の座を譲り、豊臣家を討ち果たしました。し
かし、若様が今のようでは、譲るに譲れない
とお考えなのかもしれません」
「では、私が父上の言うことを聞くようにす
れば、将軍になれるということか」
「そうなれば、若様のしたいことも叶うと思
いますが」
「それで父上の天下泰平の総仕上げがしやす
くなるのであれば、そうしてみるか」
 道春と福は深くうなずいた。

2013年9月4日水曜日

家光

 家光は、江戸城・西の丸の庭に出て、兵法
師範となった柳生宗矩に剣術の手ほどきを受
けていた。
 道春が廊下を歩いている姿に気づくと、家
光は廊下に腰かけて笑顔を見せた。
「道春先生、お久しぶりですね」
 道春は家光の側に正座して一礼した。
「若様、私は少々病んでおりまして、お目に
かかることができませんでした。元服、おめ
でとうございます。ご挨拶が遅れまして申し
訳ありません」
「そうだったのですか。でも元気そうで、な
によりです。ああ、こちらは、私に剣術など
を指南していただくことになった柳生宗矩先
生です」
「お初にお目にかかります、柳生宗矩です。
道春先生には兄が大変お世話になりました」
「道春です。お世話になったのは私の方です。
宗章殿はお元気ですか」
「それが、すでに亡くなってございます」

 宗矩の兄、宗章は、常に小早川秀秋の側に
あり、関ヶ原の合戦では秀秋の警護にあたっ
た。その後の小早川家がお家断絶になった翌
年、米子藩に迎えられた。ところが、藩主の
中村一忠が、家老の横田村詮を誅殺する事件
に巻き込まれ、謀反を起した横田家側に加わっ
て奮戦するも討ち死にした。

「そうでしたか」
 家光が意外そうに聞いた。
「道春先生は、宗矩先生のお兄様をご存知だっ
たのですか」
「はい。それはもう武勇に優れた好漢でした」
「そうでしたか。柳生家はご兄弟そろってす
ごいのですね」
 宗矩は兄に思いをはせるように言った。
「私より兄の方が数段上にございました」
 三人がしんみりしているところに福が現れ
た。
 道春の目には、福が一段と気品高く、落ち
着いて見えた。
「これは、お懐かしいお方がおいでですこと。
竹千代様、早く汗をお拭きになって、お着物
を着替えてくださいませ」
「あい、分かりました。道春先生のお相手を
お願いいたします」
 家光は着物を着替えるために座敷に向かっ
た。その後ろから宗矩が付き添った。
 道春と福は、家光の姿が見えなくなるのを
見届けて、別の座敷に入った。
「道春様、こちらにあまりお顔が見えません
でしたので心配しておりました」
「色々ありまして。それより、正成殿は今、
越後におられます。松平忠昌様の側近となり、
糸魚川で二万石の大名となられました。忠昌
様は、常陸・下妻の三万石から移封を重ねら
れ、わずか四年で越後・高田の二十五万石へ
と目覚しいご出世。その陰には正成殿のお力
があったのでしょう」
「そうですか。いつもお気にかけていただき、
ありがとうございます。私も正勝も元気にし
ております。正利も国松様によく仕えて、元
気でいるようです」
「それは良かった。正成殿にお会いする機会
がありましたら伝えましょう。しかし、今日
は若様の今後のことで少々、難題がありまし
て……」
 その時、足音がして家光の姿が見えた。
「お待たせしました」
 着物を着替え終わった家光が座敷に入って
座った。
「父上が私について、何か言っておりました
か」
「竹千代様、福は下がっております」
 福が下がろうとするのを道春が止めた。
「いえ、お福殿にも聞いておいていただきた
いのです。若様、よろしいでしょうか」
「もちろんです。福、そのままでよい」
「はい」
 道春は率直に話し始めた。
「今日、こちらに参りましたのは、若様がお
なごに興味をお示しにならないという噂があ
り、そのお心をお聞きしたいと思ったからで
す」
「いきなりそのようなこと、先生には関係の
ないことでしょう」
「私は先頃、子を一人、亡くしました。残る
二人の子も危うく死なせるところでした。そ
れで思ったのです。私が死んだ時、私がこれ
までしてきたことが全て失われ、後世に何も
遺らないのではないかと。もちろん、私のよ
うな者にどれほど遺す価値があることをして
きたか。しかし、私のような者でもそう考え
るのです。まして若様は、権現様が築かれた
天下泰平の世を後世に伝える天命がございま
す。それをなんとお考えなのか。若様と一緒
に学んだ私や、若様をここまで育てられたお
福殿には、知っておく必要があると思ったの
です」
「そうですか。先生のお子が亡くなったので
すか。さぞお辛いことでしょう。私はなにも
子を儲けたくないと思っているのではないの
です。父上は、私に公家の姫を嫁がせようと
無理強いしています。それが嫌なのです。私
は、帝が和子を嫌がっていたのが分かるので
す」
「しかし、今は帝も和子様を快く思っておら
れるご様子です。人は会ってみなければ、そ
の良し悪しは分からぬものではないでしょう
か」
「それはそうですが、私は民の心が離れるの
が心配なのです」
「民の心」

2013年9月3日火曜日

道春の凶事

 この年の十一月、道春は江戸にいて、亡く
なった藤原惺窩が遺した文書を「惺窩文集」
として刊行する準備や漢文の「朱子詩集伝」
を和訳する仕事に専念していた。
 そこに京から「次男の長吉が天然痘を患い
死んだ」との知らせが届いた。
 それからすぐ、亡くなった長吉が招いてい
るかのように道春の身体に腫物ができた。
 道春は幕府に暇を請い、京の自宅に戻ると、
長男、叔勝と三男、吉松も天然痘にかかって
やつれていた。
 それでも、亀の献身的な看病と亀の父、荒
川宗意の力添えにより快方に向かっていた。
「旦那様、長吉が……」
 道春の顔を見て、気丈に振舞っていた亀の
気が緩み、涙がとめどなく流れた。
 道春は、亀にかけてやる言葉が見つからず、
そっと抱きしめることしかできなかった。
 宗意が慰めるように言った。
「長吉が、叔勝と吉松を守ってくれたのだ。
これだけで治まったことを良しとせねばな」
 道春の目にも涙が溢れた。
「すまない。皆、すまなかった。日頃、偉そ
うに言っている私が、薬草や医術の書を読ん
でいるこの私が、いざという時に何もしてや
れなかった。ふがいない父を叱ってくれ」
 宗意が、うなだれて肩を落とした道春に言っ
た。
「道春殿、自分を責めてはなりません。あな
たはもっと大切な仕事をされているのです。
この世を良い方向に導く、誰にも成しえない
大仕事です。家に目を向けていては成し遂げ
られるものではありません。そうでなければ、
長吉の死は悲しいだけではありませんか」
 亀も涙をぬぐっていった。
「旦那様、私はもう大丈夫です。長吉のため
にも落ち込んでなどいられません。旦那様も
仕事にお戻りください。子らが尊敬する旦那
様でいてもらわなければ」
「亀。そうだな。皆に報いるには、もっともっ
と良い世にしなければな。父上、亀のこと、
よろしくお願いいたします」
「分かりました。ご存分に働きなさい」
 道春は長吉を弔うと、すぐにやりかけにし
ていた「朱子詩集伝」の和訳を終わらせた。

 元和七年(一六二一)

 春になって、道春の身体にできていた腫物
が小さくなると、養生を兼ねて摂州、紀州を
巡り、有馬温泉で湯治した。そして、この旅
を記した「摂州有馬温湯記」や鎌倉時代に吉
田兼好が書した随筆「徒然草」を注解した「野
槌」を著作した。

 秀忠は、後水尾天皇に和子が気に入られて
いることを知るとほっとした。
 残る使命は、天下泰平を磐石なものとして、
前年に十七歳で元服して竹千代から名を改め
た家光に引き渡すことだけだった。しかし、
その家光との関係がうまくいかない。
 久しぶりに呼んだ道春に、そのことをふと
もらした。
「どうやら和子は帝とうまくやっているよう
だ。近く、竹千代にも公家の姫を貰い受ける
つもりなのだが、福が言うには、竹千代は女
に興味を示さんらしい。父上は竹千代を世継
ぎにと決めたが、やはり国松のほうが良かっ
たのではないだろうか」
「若様は今まで、お福殿以外は男ばかりの中
でお育ちになったのです。そのお福殿も男勝
りなところがあり、おなごの色香をご存知な
いのですから無理もありません。まずは、お
なごを見る機会を多くして、しばらくご様子
をご覧になってはどうでしょうか」
「ふむ、世話のやけることじゃ。それから、
竹千代は、今わしがしておる、キリシタンへ
の処断を快く思うておらん。わしがどんな思
いで処断しておるのか、まったく分かってお
らん」
「それも、若様は戦のことを話でお聞きになっ
ているだけで、その惨状はお目にされたこと
がないからでしょう。それより、政務にご興
味をお示しになられたことを良しとなさいま
せ」
「そうかのう。あれが何を考えているのか、
わしにはさっぱり分からん。道春、そなたは
これから度々、竹千代に会って、その心意を
探ってほしい。それによっては世継ぎも見直
さねば」
「はっ、よくよくお聞きしてまいりますので、
しばらくお時間をいただきとうございます」
「頼むぞ」

2013年9月2日月曜日

天皇と和子

 和子は、婚礼の儀が終わると御殿にこもっ
た。
 気になった後水尾天皇が、和子の側に仕え
る女官に様子を聞くと、源氏物語の絵巻を広
げて見ていると言う。
 天皇は、和子が狩野探幽の書き上げたとい
う二百巻にもおよぶ源氏物語の絵巻を持参し
たことは聞いていた。それをぜひ見たいとも
思っていた。
 望まない入内だとしても、このまま会わな
いわけにもいかない。そこで天皇は御殿に向
かった。
 天皇が御殿に入ると、まばゆい光が目に飛
び込んできた。
 そこにいた和子は、座敷に源氏物語の絵巻
を何巻も無造作に広げ、あどけない顔で見て
いた。
 絵巻は黄金に輝き、和子の顔や座敷にもそ
の輝きが照り返していた。
 天皇が立ち尽くしているのに気づいた和子
は、慌てて平伏した。
「か、和子と申します。不束者にございます
が、幾久しく、よろしくお願い申し上げます」
「見てよろしいですか」
「えっ」
「この絵巻物です」
「あっ、はい。これらは、すべて帝のお品に
ございます。どうぞお改めください」
 天皇は、和子の側に座って、黄金に輝く絵
巻を興味深そうに見た。
 その天皇の横顔を見た和子から、小声が思
わず出た。
「良かった」
「何ですか」
「いえ、申し訳ありません。父上から、帝は
神様だと聞かされていました。私は、不動明
王様のような、怖いお顔の神様だと嫌だなっ
と思っていたのです。それが、お優しそうな
お顔をしておられるので、ほっとしたのです」
「そうですか。神様ですか。しかし、それも
今は名ばかりの神。そなたのお爺様が権現様
におなりになり、影が薄くなりました」
「お爺様は、私にとっては今でもお爺様です。
権現様などと、それこそ名ばかりではありま
せんか」
「ほう、そなたはそのように思われているの
ですか」
「はい。でも、八百万の神と申しますから、
お爺様のような神様がいてもいいのかもしれ
ません」
「そなたのお爺様は、どのようなお方だたの
ですか」
「お爺様は優しい時もあり、怖い時もありま
す。私たちと遊ぶ時はまるで童のようにはしゃ
ぎます」
「ほほう、童のようか」
「はい」
「そなたも、このように沢山の絵巻物を広げ、
まだ、童のようですね」
「ああ、これは、絵を見ていたのです。こう
して次々に絵を見ていくと、まるで平安の世
に行ったみたい。人々が生きているように見
えるのです」
「たしかにこの絵はすばらしい。そなたは、
源氏物語をご存知ですか」
「はい、一通りは聞き知っていますが、難し
くて。なぜ藤壺は、光源氏を受け入れたので
しょうか。光源氏の母なのでしょ」
「母といっても、光源氏を産んだ母ではあり
ません。ひとりの女として光源氏を愛してい
たのでしょう」
「そうでした。でも、藤壺には光源氏の父の
桐壺帝がいらっしゃいました。桐壺帝との間
に愛情はなかったのでしょうか」
「あったと思いますよ。それでも光源氏の、
藤壺を慕う愛情を拒めなかったのだと思いま
す」
「私も藤壺のようになりたい」
「それは……」
 天皇は、和子を哀れに思った。
「そなたには、なんの罪もないのですが、私
は、そなたを受け入れることはできません。
私には好きな人がおり、すでに、子も生して
おります」
「与津子様ですね」
「知っておいででしたか」
「でも帝は、与津子様に愛情がおありだった
のでしょうか」
「もちろん。なぜそのようなことを」
「帝が私を見た時、お優しいお顔をしておら
れました。もし、与津子様に愛情がおありな
ら、今でも私を見れば、お怒りの目で見られ
ると思います」
「……」
「でも、どちらでも良いのです。光源氏も多
くの女と契りを結んでおられますから。私も、
帝がこれから色々な女と契ることを覚悟して
おります。それが、帝の人質となった、私の
運命と思っております」
「人質。そなたは人質などではありません。
どちらかといえば、私のほうが徳川に囚われ、
なにもかも言いなりの人質同然の身です」
「えっ、そうなのですか。でもご心配にはお
よびません。お爺様も幼少の頃、織田、今川
に人質となっておりましたが天下人になりま
した。帝もそのうち……。あっこれは失礼い
たしました。帝はすでに天下人の上におわす
神様にございました」
「あはははは、お爺様はそうでありましたね。
お爺様はどうやって天下人になったのでしょ
う」
「私には分かりかねますが、いつもお爺様は
『大望を果たすには、長生きすることじゃ』
と口癖のように申しておりました」
「長生きですか。どのようにすれば、長生き
できるのでしょう」
「これも、お爺様が申しておりましたことで
すが『質素に暮らし、粗食を心がけて、庶民
の手本とならねばならん』と」
「なるほど」
「それを、美味しそうな御菓子を目の前に置
かれて聞かなければならないのです。大変辛
くございました」
「あはははは、それは辛いでしょうね。はは
は、良いお話をお聞きしました。それでは私
はこれで」
「あの、この絵巻物をお持ちくださいませ」
「いえ、ここに……。ここに度々来て、見さ
せてもらってもよろしいですか」
「はい、もちろん。そう、その時には、私に
公家の作法などお教え願えませんでしょうか」
「よろしいですよ。ではまた」
 天皇は会釈をして去った。その後姿に、和
子はいつまでも平伏していた。

2013年9月1日日曜日

和子の入内

 掛け軸の真贋を鑑定する役目を終えて京の
自宅に戻っていた道春が、平穏な日々を送っ
ていた時、藤原惺窩が死去したという知らせ
が届いた。
 惺窩はこの時、五十九歳。
 以前から中風を病み、寝込んでいることは、
手紙が届いて知ってはいたが、こんなに早く
死ぬということは、道春の頭の片隅にもなかっ
た。
「先生が逝ってしまわれた。これからご恩返
しをしなければならないという時に……」
 道春は悲しみに暮れたが、これは悲劇の始
まりでしかなかった。
 惺窩は亡くなったが、儒学は道春をはじめ
松永尺五、那波活所、堀杏庵などの有能な門
人が巣立ったことで一大学派として幕府にも
影響力を増していた。そのため、惺窩の弟子
たちに精神的な支柱を失った悲しみはあった
が、将来に対する不安はなかった。
 それぞれが行き場所を見つけ、惺窩の遺志
を継ぐことを誓った。そして、道春のもとに
も惺窩の弟子たちの一部が集まり、道春は新
たな門人として受け入れた。

 京では、後水尾天皇と秀忠の関係悪化が深
刻になっていた。それは、四辻与津子が女子
を産んだからだ。
 あまりにも都合よく産まれたので、この赤
子が天皇の子かどうかは疑わしかったが、天
皇が自分の子と認めた。
 それを秀忠は無視するかのように、大坂城
の修築を始めて、朝廷との戦も辞さない構え
を見せ、天皇への圧力を強めた。
 しばらくして、関白だった二条昭実が亡く
なると、秀忠は、九条忠栄を関白とした。
 これは天皇が関白を選任するという役割を
奪うもので、天皇は再び譲位して出家するこ
とを藤堂高虎に伝えた。
 これに対し秀忠は、四辻与津子の兄弟、四
辻季継と高倉嗣良を含む、天皇の側近だった
公家らを些細な罪で処罰し、天皇から引き離
した。しかし、これは天皇をかたくなにさせ
ただけで進展がなかった。そこで、京都所司
代の板倉勝重に公家らを処罰したことの責任
をおわせて解任し、勝重の子、重宗を後任と
して天皇の怒りを静めようとした。

 元和六年(一六二〇)

 天皇と秀忠の間で、板ばさみになっていた
藤堂高虎は、天皇の弟の近衛信尋に「天皇を
配流して自らは自刃する」と伝えた。
 信尋はこれを天皇に伝え、このままでは朝
廷さえも滅ぼされかねないと悟った天皇は、
抵抗することをあきらめ、和子の入内を受け
入れる決心をした。
 五月二十八日に江戸から出発した和子は、
京・二条城に着いた。
 その疲れからか和子は病になり、予定より
遅れて六月十八日に無事入内した。
 和子の持参金は、七十万石にもおよび、嫁
入り道具は二条城から御所まで延々と続いて、
公家をも超えた徳川家の威光を京の民衆の目
に焼き付けた。
 家康以来の念願だった和子の入内を果たし
た秀忠は、ため息をついた。
「これでわしのやれることは全てやった。後
は和子に委ねるしかない」
 この時、わずか十四歳の和子に徳川家だけ
ではなく、公家と武家の命運が、大きくのし
かかっていた。