2013年9月1日日曜日

和子の入内

 掛け軸の真贋を鑑定する役目を終えて京の
自宅に戻っていた道春が、平穏な日々を送っ
ていた時、藤原惺窩が死去したという知らせ
が届いた。
 惺窩はこの時、五十九歳。
 以前から中風を病み、寝込んでいることは、
手紙が届いて知ってはいたが、こんなに早く
死ぬということは、道春の頭の片隅にもなかっ
た。
「先生が逝ってしまわれた。これからご恩返
しをしなければならないという時に……」
 道春は悲しみに暮れたが、これは悲劇の始
まりでしかなかった。
 惺窩は亡くなったが、儒学は道春をはじめ
松永尺五、那波活所、堀杏庵などの有能な門
人が巣立ったことで一大学派として幕府にも
影響力を増していた。そのため、惺窩の弟子
たちに精神的な支柱を失った悲しみはあった
が、将来に対する不安はなかった。
 それぞれが行き場所を見つけ、惺窩の遺志
を継ぐことを誓った。そして、道春のもとに
も惺窩の弟子たちの一部が集まり、道春は新
たな門人として受け入れた。

 京では、後水尾天皇と秀忠の関係悪化が深
刻になっていた。それは、四辻与津子が女子
を産んだからだ。
 あまりにも都合よく産まれたので、この赤
子が天皇の子かどうかは疑わしかったが、天
皇が自分の子と認めた。
 それを秀忠は無視するかのように、大坂城
の修築を始めて、朝廷との戦も辞さない構え
を見せ、天皇への圧力を強めた。
 しばらくして、関白だった二条昭実が亡く
なると、秀忠は、九条忠栄を関白とした。
 これは天皇が関白を選任するという役割を
奪うもので、天皇は再び譲位して出家するこ
とを藤堂高虎に伝えた。
 これに対し秀忠は、四辻与津子の兄弟、四
辻季継と高倉嗣良を含む、天皇の側近だった
公家らを些細な罪で処罰し、天皇から引き離
した。しかし、これは天皇をかたくなにさせ
ただけで進展がなかった。そこで、京都所司
代の板倉勝重に公家らを処罰したことの責任
をおわせて解任し、勝重の子、重宗を後任と
して天皇の怒りを静めようとした。

 元和六年(一六二〇)

 天皇と秀忠の間で、板ばさみになっていた
藤堂高虎は、天皇の弟の近衛信尋に「天皇を
配流して自らは自刃する」と伝えた。
 信尋はこれを天皇に伝え、このままでは朝
廷さえも滅ぼされかねないと悟った天皇は、
抵抗することをあきらめ、和子の入内を受け
入れる決心をした。
 五月二十八日に江戸から出発した和子は、
京・二条城に着いた。
 その疲れからか和子は病になり、予定より
遅れて六月十八日に無事入内した。
 和子の持参金は、七十万石にもおよび、嫁
入り道具は二条城から御所まで延々と続いて、
公家をも超えた徳川家の威光を京の民衆の目
に焼き付けた。
 家康以来の念願だった和子の入内を果たし
た秀忠は、ため息をついた。
「これでわしのやれることは全てやった。後
は和子に委ねるしかない」
 この時、わずか十四歳の和子に徳川家だけ
ではなく、公家と武家の命運が、大きくのし
かかっていた。