2013年9月10日火曜日

戦の備え

 寛永三年(一六二六)

 家光が二月早々に川越、鴻巣で巻狩りをす
るのに、道春もお供を命じられた。
 ほとんどの家臣が獲物を追い立てに向かい、
馬上の家光と道春はその様子を眺めた。
「道春、キリシタンは九州にまで追い詰めら
れたが、抵抗は衰えていないようだ。そこで
水野守信が踏絵という物を考えてな」
「踏絵」
「そうじゃ。キリシタンが信仰している聖者
の絵を踏ませることでキリシタンかそうでな
いかを見極める物だ」
「なるほど、しかしそれではキリシタンでも
その絵を踏めば、遁れられるのではないです
か」
「そうだ。私はキリシタンであっても、その
信仰を他の者に流布せず、自分たちの内に隠
すのであれば、それでよいと思っている。そ
れでも絵を踏まぬということは、キリシタン
である以前に、幕府に対する謀反人というこ
とだ」
「その踏絵を使えば、キリシタンでない者に
拷問などしなくてすむということにもなりま
すな」
「そうなのだ。そこで、守信を長崎奉行にす
ることにした。しかしこれですべてが治まる
とは思えない。いずれ戦になるやもしれん。
道春は以前、戦の前にこうした巻狩りで兵の
訓練をしておったのだろ」
「はっ、左様にございます。それで私にお供
を」
「そうだ。それを教えてもらいたいのだ。私
に兵を統率する器量があるかも知りたいのだ」
「それは、上様にはすでに備わっておられま
す。兵を動かすには、まず目的を明確にし、
兵を信頼して自由に行動したくなるようにす
ることにございます。守信殿の考えを取り入
れ、長崎奉行にされたことはまさにこれと同
じにございます」
「道春にそう言われると自信がわく」
「恐れ入ります。上様、あとは馬を乗りこな
すことにございます」
「よし分かった。着いて参れ」
 家光が馬を走らせると、道春もその後に続
いた。
 それから家光は、柳生宗矩から剣術の指南
を受け、新陰流兵法を会得した。さらに道春
から「孫子諺解」「三略諺解」「四書五経要
語抄」など兵法や帝王学の書を習い、戦に備
えた。
 七月になると、家光は江戸を発ち、京に向
かった。これは、後水尾天皇が二条城に行幸
するのに先立つもので、前年に新しく出来た
淀城の視察も兼ねていた。
 その家光に道春も同行していた。
 秀忠は、それより先の五月に江戸を発ち、
すでに二条城に入っていた。
 今すぐにでも、天皇の中宮となった和子に
会いたかったからだ。
 秀忠には、東舟が同行していた。
 和子は、前年の九月に二人目の女子、昭子
を産み、また身ごもっているとの知らせがあっ
た。
 家光が入った新しい淀城は、かつて豊臣秀
吉の側室、淀の居城があった対岸に、松平定
綱によって築かれた。
 そこは、桂川、宇治川、木津川が合流する
中州を干拓し、廃城となった伏見城の廃材や
二条城の改築にともない不要となった天守が
移築されていた。
 川を自然の外堀として、実戦を意識した堅
固な城となり、泰平の世には似つかわしくな
かった。
 家光は、道春らとしばらく淀川で舟遊びを
するなどして、天皇の行幸する日を待った。
 天皇は、和子を受け入れ、愛してはいたが、
秀忠を恨む気持ちが消えたわけではなかった。
 二条城への行幸は、秀忠に屈服するような
暗い気分にさせた。それを察した和子は、密
かに秀忠のもとに手紙を送り、天皇の面目が
保たれるように訴えた。そこで秀忠は、征夷
大将軍である家光が、御所まで天皇を迎えに
行くように計らった。
 これでは天皇も受けざるおえず、和子と三
歳になった興子を伴った行幸は、三千数百人
にも及ぶ諸大名の警護の中、無事に行われた。
 秀忠は、和子の姿が見えると父親の顔にな
り、天皇には気にもとめず、和子に駆け寄っ
た。
「和子、達者であったか。おお、興子姫も大
きくなられましたな。それに和子、また子を
身ごもったそうじゃな。でかしたぞ」
「父上もお元気そうで、母上はどうなさって
いますか」
「元気じゃ、元気じゃ。お江与も会いたがっ
ておったが、子が産まれたら会いに来させよ
うと思うておる」
「そうですか。それより、帝にご挨拶を」
「おお、そうであったな」
 秀忠は、天皇に型通りの挨拶をして、気ま
ずくなる前にすぐ離れた。
 二条城で行われたご御宴は、四日間に及ん
だ。その間、道春は二条城と淀城を行き来し
て雑務をこなした。
 そんな中、悲しい知らせが届いた。
 秀忠のもとに、正室、江与の死が伝えられ
たのだ。