2013年9月14日土曜日

天皇の譲位

 和子が天皇を説得して春日局との対面が叶っ
た。しかし、天皇は春日局にあからさまに冷
めた態度をみせた。
「いまさら、そなたに会ってなんになる。私
の父上は、そなたらを最後まで信じて身まか
られた。なのに状況は悪くなる一方ではない
か」

 後水尾天皇の父、後陽成天皇は、小早川秀
詮が幕府に入り、朝廷のために働いてくれる
ものと期待していた。しかし、元和三年(一
六一七)に崩御した。

 春日局が平伏して話し始めた。
「まことにお恐れながら、謹んで申し上げま
す。徳川家が間違ったことをしているでしょ
うか。たしかに、帝への対応は厳しく、神を
も恐れぬ所業に思われるのは仕方のないこと。
しかし、民の暮らしはどうでしょうか。キリ
シタンのような、一部の者たちには、いまだ
辛い日々が続いておりますが、かつての乱世
を思えば、安楽な世になりつつあります。こ
れに波風を立て、再び乱世にすることが、先
帝のお望みだったのでしょうか。病を治すに
は痛みをともないます。たとえ癒えたとして
も、傷となって残ることもあります。それを
恐れて死を待つことは、人の上に立つ者のす
ることではありません。帝は御譲位されれば、
それですむかもしれませんが、上様には到底
出来ぬこと。今はそれを支えるのが私たちの
役目にございます」
「私が、民のことを考えていないとでも申す
のか」
「いえ、民が帝から遠ざかっているのです」
「なに……」
「世が泰平になれば、民は神に何を望みましょ
うか。この泰平が末永く続くこと。それは、
幕府のまつりごとに関わることではないでしょ
うか。キリシタンは幕府のまつりごとを邪魔
しているので排除されるのです。同じように、
朝廷が幕府の邪魔をすれば、民は帝からも遠
ざかりましょう」
「私は、民にとっては必要ないということか」
「いえ。太陽は民が望む望まないに関わりな
く常に照らしており、民の暮らしを邪魔しま
せん。本当に大切なものは、あることさえ気
にならないのではないでしょうか」
「太陽か。では、私のしていることは、太陽
をさえぎる雲か」
「今は民からそう思われているのかもしれま
せん。しかし、雲になるのは幕府の役目。帝
は常に太陽であらねばなりません」
「ならば、私はどうすればよいと言うのだ」
「和子様は、帝を自由にしてさしあげたいと
申されておりました。私は、そのお望みを叶
えてさしあげたいと思っております。もはや
朝廷と幕府は抜き差しならぬ事態になってお
ります。帝は何度も御譲位を幕府に伝えられ
ております。こたびまた御譲位と言われたと
ころで、幕府は本気にはしません。このまま
では、公家らも帝を見放しかねません。ここ
は誰にも告げず、すぐに実行されるしかない
と思います」
「それではなおさら、公家らからも信頼を失
うではないか」
「それでよいのです。公家らが帝の御譲位を
何も知らなかったとなれば、幕府と対立する
きっかけを失います。幕府も、朝廷には何も
言えなくなります」
「急な譲位となれば、それなりの理由が必要。
……やはり病か」
「それがよろしいでしょう。御譲位の後の口
実です。もはや大御所様も強くお留めだてし
ないでしょう」
「それで、家光は」
「上様は、興子様に御譲位されるのであれば、
大御所様を説得できると申しておられます」
「そうでしたか。すでにそちらの手はずは整っ
ていたのですね」
「そうでなければ、私のような者が帝に拝謁
などできるわけがありません」
「そなたは強いな。和子はそなたを見て育っ
たのか」
「いいえ。女は母になれば誰でも強くなるも
のです。子のためら命も惜しみません」
「そのこと、よく覚えておこう」

 十一月

 突然、後水尾天皇は病気治療を理由として、
和子との間に産まれた長女、興子を内親王と
して譲位をした。
 天皇のままでは病気治療できないため、止
むを得ず上皇になるという策を講じたのだ。
 天皇の突然の譲位に、何も知らされていな
い公家たちから動揺が起こった。
 天皇の側近である土御門泰重にも知らされ
ていないことに、京都所司代、板倉重宗はな
す術もなく、江戸に知らせて判断を仰いだ。
 一報を聞いた秀忠は激怒し「帝を隠岐島に
流す」と言い出した。
 家光のもとには稲葉正勝が駆けつけ、秀忠
の様子を伝えた。それを聞いた家光は、慌て
るでもなく、正勝と共に秀忠のもとに向かっ
た。
 まだ怒りが治まらない秀忠は、座敷をひと
り、右往左往していた。
「父上、落ち着いてください。今となっては
どうすることもできません。それより、この
後のことを考えねば」
「これが落ち着いておられるか。わしにこと
ごとく楯突きおって。もう許さん。和子とも
離縁じゃ」
「何を申されます。父上は朝廷と戦をなさる
おつもりか。権現様がお聞きになったらなん
と申されるか」
 秀忠はやっと落ち着き、力なく座った。
「よいですか父上、まだ全てが終わったわけ
ではありません。帝は公家らに何も告げずに
御譲位されたと聞きます。これは帝が我らに
味方し、公家らが孤立したとは考えられませ
ぬか」
「……」
「公家らには、頼るものがこの幕府しかない
のです。今は公家らに手を差し伸べ、恩を着
せて身勝手な帝と離反させれば、朝廷をなき
ものに出来るではありませんか」
「朝廷がなくなる」
「そうです。公家らを飼い慣らす良い機会と
なりましょう」
「ふむ」
「今は、父上の寛大なお心をみせる時です」
「家光、お前はやけに落ち着いておるな。そ
ういえば東舟と道春は今、京におるはず。ま
さかお前、何か謀ったか」
「父上はお歳のせいか、疑い深くなっておら
れますな。東舟と道春は、亡き父の葬儀に行っ
ておるのです。そもそも帝に拝謁など叶いま
すまい」
「それもそうじゃな。では、このことはお前
に任せる。わしはもう疲れた」
「ははっ」
 家光は、秀忠に一礼をすると、チラッと正
勝を見た。すると正勝も一礼をして家光と目
が合い、お互いにニヤッと笑った。

 天皇の譲位で役目を終えた春日局が江戸に
戻った。その後を追うように、しばらくして
東舟、道春も江戸に戻った。
 そして十二月三十日、家光のはからいで、
道春は民部卿法印、東舟は刑部卿法印という、
僧侶としては最高の位を授けられた。
 東舟は、儒学者として僧位を受けることを
ためらったが、道春が働きやすくなることを
考え、しかたなく受けることにした。