2013年9月12日木曜日

復帰

 越前では領主の松平忠昌が、閉居した稲葉
正成の嫌っていた北ノ庄で奮闘していた。
 忠昌はまず、地名の北ノ庄には敗北を意味
する「北」があるため「福居」と改めた。そ
れから、家臣の信頼を得て、雪深いために起
きる災害を最小限に食い止める整備の政策を
優先して行った。
 忠昌は、その成果を正成に見に来るように
と誘った。
 しばらくしてやって来た正成を忠昌は喜ん
で出迎えた。
「上様、この地を見事に治められましたな。
私が以前、来た時とは大違いにございます。
これはまさに福の神が居ますな」
「正成にそう言われとうて、ここまでやって
きたのじゃ。しかし、まだまだ難題が多い。
正成の力がどうしても必要なのじゃ。戻って
きてはくれぬか。わしを見捨てんでほしい」
「身にあまる過分なお言葉、恐れ多くござい
ます。永く閉居して、ご覧のように身体は早
老し、知恵も枯れはてました。これでは上様
の足手まといにこそなれ、なんのお役にも立
てません。なれど、我が子の正勝が家光様の
側にお仕えしており、家光様との絆を深める
ことができるやもしれません。この身は上様
の下足番にでもしていただければうれしく思
います」
「あはははは。正成にはかなわんな。何もか
も見抜かれておる。そうじゃ、正勝殿との絆
を深めたいのじゃ。下足番か。これは一本と
られたわい」
「上様、私こそご無礼いたしました。けっし
て上様のお心を試す意図はございませんでし
た。上様が私よりも、はるか先を見ておられ
て、少々ひがんでおったのです」
「ならばわしに仕えるな」
「はっ、もう二度と上様のお側を離れはいた
しません」

 一方、家光には頭の痛い問題が起きていた。
 後水尾天皇が禁中並公家諸法度にある「朝
廷が高徳の僧侶や尼僧に紫衣(紫色の法衣、
袈裟)を幕府の許しがなく与えることを禁じ
る」とあるのを破り、僧侶、十数人に紫衣着
用の勅許を与えたのだ。
 天皇は、和子が男子、高仁親王を産んだこ
とで、将来、朝廷が徳川家に乗っ取られるこ
とが確実になり、最後の抵抗に出たのだ。
 これに対して家光は、京都所司代の板倉重
宗に、法度違反の紫衣着用の勅許をすぐに無
効とするように命じた。
 すると今度は、沢庵宗彭や玉室宗珀、江月
宗玩などの高僧が、天皇の行ってきた慣例を
守ろうと抗議文を幕府に出してきた。
 キリシタンに続き、既存の宗教界までも敵
にまわしかねない事態に家光は、結論を急が
ず、慎重に対処する姿勢をみせ、しばらく間
をおくことにした。

 寛永五年(一六二八)

 道春は、家光の側にいることが多くなり、
二月の川越の巻狩りや四月の家康十三回忌に
日光社へ参拝するのにも同行した。
 そんな八月のある日、道春のもとに、青ざ
めた顔をした稲葉正勝がやって来た。
「正勝殿、お勤めに熱心なのは良いことです
が、少々お疲れのご様子。お顔の色が変です
ぞ。少しお休みになられては」
「道春様、父上が、身まかりました」
「えっ」
「江戸に来ていた父上が、私に後のことは頼
むと言い残し、十七日に逝きました」
「……………………」
「何かあれば道春様に教えを乞えと」
「…………………まだ早すぎる。わしは……
まだ……恩を返しておらんのに…………」
「道春様、どうか母上をお守りください。父
上は最後まで母上のことを気にかけておりま
した」
「……分かりました。正勝殿、そなたは強い。
正成殿の分も共に励みましょうぞ」
「はい」
 稲葉正成の埋葬は、天海が整備していた上
野の東叡山に建てられた現竜院と決まった。
 その葬儀に現れた松平忠昌は、正成の突然
の死に言葉もなく、ただ涙がとめどなく流れ
ていた。
 道春はこれを機に、十六歳となった長男、
叔勝を江戸に呼び、自分の後継者として側に
おくことにした。
 叔勝は一通りの儒学をすでに学び、実務の
経験をつむことに励んだ。