2013年9月15日日曜日

私塾

 寛永七年(一六三〇)

 正月に道春と東舟は、家光から江戸城に呼
ばれた。
 居並ぶ諸大名や天海、崇伝に次いて、初め
て秀忠と家光に参賀を許された。そして、政
務では宗教上の紛争処理を協議する奉行を務
めるなど、その地位を確立していった。
 道春は、忙しい政務の合間にも、家光の供
をして、川越、鴻巣に行き、鷹狩りをして兵
法の実地訓練を教授した。
 東舟は、秀忠が天皇の譲位で気力を失い、
病にふせることが多くなり、その看病にあたっ
た。
 五月に、道春のもとへ京から亀が病になっ
たと知らせがあった。
 急いで京へ戻ってみると女子が誕生してい
た。この時、亀はまだ横になり、辛そうにし
ていた。
 道春は亀を気遣い、しばらく留まって、産
まれた女子を振と名付けた。また、十三歳に
なった三男の吉松が元服し、春勝と名を改め
たのを祝った。
 八月にようやく亀の体調も良くなり、道春
は江戸に向かった。しかしその途中、京に向
かう酒井忠世、土井利勝らと出会った。
 酒井から「道春は、後水尾天皇が譲位して、
明正天皇となる興子の即位の儀に加わるよう
に、家光様から命がくだっている」との伝言
があったので、また京に引き返した。
 明正天皇即位の儀は厳かに執り行われ、そ
の様子を狩野探幽が絵にし、道春が書に記録
して江戸に戻った。
 しばらくして、幕府から道春に上野・忍ヶ
岡にある五千三百坪の土地と、そこに私塾を
建てるようにと、金二百両を賜った。
 以前にも京に私塾を建てる機会はあったの
だが、大坂の合戦が起こり、立ち消えになっ
ていた。
 かつて小早川秀詮の養父、隆景は、下野の
足利学校で学んだことのある僧侶、白鴎玄修
を筑前に呼び、名島城内に学校を設けて、足
利学校と同様の学問を家臣やその子息に教え
させた。
 道春は、ふとそんなことを思い出していた。
 上野・忍ヶ岡といえば、天海が広大な土地
を整備した東叡山が近くにある。それとは比
較にならない狭い土地だが、幕府が私塾を支
援するのは異例のことだった。
 道春は早速、塾舎と書庫を建てることにし
た。すると、家康の九男で尾張の領主、徳川
義直から孔子を祀る先聖殿の寄進があった。
 道春は以前、家康が亡くなり、家光の側に
仕えるようになるまでの間、諸大名や旗本に
呼ばれて侍講をしていたが、義直はその内の
一人だった。しかし、道春には特に寄進を受
けるようなことをしたという記憶はなかった。
 道春は東舟から「天海は孔子の末裔ではな
いか」と聞いたことがある。
(天海殿には、この地に私塾を建てるのは快
く思われていないはず。それを和らげるため
のご寄進だろうか。しかし、義直殿がなぜ)
 道春はなんともいえない奇縁を感じていた。
 ある日、今度は道春のもとに稲葉正勝が、
一人の子を連れてきた。
「先生、この子は、私の家臣、塚田杢助の知
り合いの子で、まだ九歳なのですが、なかな
か賢いのです。ぜひ先生のところで教えを乞
いたいのですが、いかがでしょうか」
 この時、道春は、幕府が私塾を支援し、義
直が先聖殿を寄進したことに、正勝の力添え
があったことを悟った。
「ほぉう。好奇心の強そうな目をしておりま
すな。喜んでお預かりいたします」
 すると九歳の子が挨拶をした。
「私は、山鹿高祐と、申します。以後、よろ
しく、お願い、申し上げます」
「これはこれは、私は道春と申します。一緒
に学びましょう」
 お互いにちょこんとお辞儀をした。
 これが道春と、やがて「忠臣蔵」の赤穂浪
士がもちいた山鹿兵法を説く、山鹿素行との
出会いだった。