2013年9月17日火曜日

追号論争

 寛永九年(一六三二)

 容態の急変した秀忠は、いく度となく生死
をさまよい、正月二十四日の夜に息をひきとっ
た。
 家光は秀忠の表情を見て、病から開放され
て穏やかに眠っているように感じた。そう思
いたかったのかもしれない。
 すぐに秀忠の葬儀を準備する一方で、天海、
崇伝、道春、東舟の四人が集まり、追号を協
議した。
 天海は、かつて家康の神号を崇伝と争い、
自分の提案した権現と決まったことで、今度
も主導権を握っていた。
「大御所様は明正天皇の祖父。それゆえ太上
天皇の尊号がふさわしく、衡岳院とするのが
良かろう」
 太上天皇とは上皇のことで、天海は秀忠も
家康に続いて神とすることを構想していたの
だ。
 それに東舟が反対した。
「大御所様には、権現様のように神になるお
つもりはありませんでした。ましてや太上天
皇となれば、権現様を超えた存在になるでは
ありませんか」
「それは違いますぞ。権現様の子なれば、興
子姫を明正天皇とすることができたのじゃ。
その功績を考えれば、太上天皇の尊号こそが
もっともふさわしいではないか」
 今度は道春が反論した。
「それは天下を乱すもとにございます。上様
は常日頃から民のことをお考えです。もし大
御所様が太上天皇となれば、民は徳川家が帝
を落とし入れ、御譲位させたという噂を事実
と受けとめましょう。その中には、キリシタ
ンのようにひどい目にあうと考える者たちも
おりましょう。それが朝廷を勢いづかせてし
まいます」
「そのようなことは、そなたの思い過ごしじゃ。
民は今の天下泰平の世を喜んでおる。それを
築いた大御所様を神と崇めるのは間違いのな
いこと。朝廷が反対すれば孤立するだけじゃ」
 なおも東舟が食下がった。
「そもそも太上天皇の尊号とするのであれば、
ここで決めることは出来ません。朝廷に奏請
する必要があります」
「なにを申すか。それでは拒否されるのが目
に見えておる。密かに帝のもとに参り、勅号
をいただくのじゃ」
 道春が苦笑いして言った。
「名ばかりの神になったところでなんになり
ましょう」
「黙れ。お前らのような若僧になにが分かる。
天下泰平は黙っていて転がりこんでくるよう
なものではない。かつての戦乱の世に戻らぬ
ためにも、ここで一気に推し進めねばならん
のじゃ」
 道春も声を荒げた。
「焦って事を進めて、良い結果になったこと
はありません。知恵のない力ずくは、下策に
ございますぞ天海殿」
 天海と道春の口論に東舟が加わり、次第に
罵声をあびせあうようになった。そこで、中
立の立場を保っていた崇伝が協議を中断させ、
家光に判断を仰いだ。
 家光は、秀忠の追号の協議で結論が出なかっ
たことを聞き、この機会に、朝廷がどのよう
な態度に出るかを探るため、道春に、衡岳院
太上天皇の尊号も含めて朝廷に奏請するよう
に命じた。
 道春は、二月に江戸を発ち、京に着くと、
京都所司代の板倉重宗や元内大臣の三条西実
条、武家伝奏の日野資勝らと会い、秀忠の追
号を奏請した。
 しばらくして江戸に戻った道春は、家光の
もとに向かった。
「上様、ただいま戻りました。早速ですが大
御所様の追号のこと。朝廷としては『大御所
様が太上天皇の尊号にふさわしいお方ではあ
るが、帝となられたことはなく、まずは正一
位を贈り、太政大臣としたうえで追号を決め
るのが順当であろう』とのことにございます」
「ふむ、もっともなことだ。これで朝廷の面
目が立ち、民の動揺もないであろう。道春、
大儀であった」
「恐れ入ります」
 こうして、秀忠は江与の眠る、芝の増上寺
に埋葬された。そして追号は、天海の主張を
退け、台徳院となった。
 この追号での働きで、道春には三百俵の褒
美が与えられた。
 天海は、家光が自分から距離をおこうとし
ているのは、道春の入れ知恵だと薄々感じて
いた。
 今度の秀忠の追号の成り行きにより、それ
がはっきりした。そして、天海をさらに不快
にしていたのが、東叡山・寛永寺の近くに建
てられた道春の私塾だった。
 私塾にもかかわらず、尾張の徳川義直が寄
進した先聖殿には、孔子や賢人の像、祭器が
安置され、書庫には、家康が亡くなった時に
駿河文庫から尾張に分配された書物と義直が
居城、名古屋城の城内に建てた蓬左文庫に集
めた書物の中から貴重な書物が膨大な数、移
されていた。
 天海は、江戸の町を風水により、魔物の進
入を防ぎ、吉祥を呼び込むことで、永遠に繁
栄するように整備した。その能力から、道春
の私塾が、風水により寛永寺の影響力を弱め
るために建てられたことはすぐに分かる。
 風水を巧みに利用した天海が、逆に風水で
封じ込められたのだ。
 家康が存命の時なら、このような暴挙は阻
止しただろうが、今は黙って見ているほかな
かった。
(まるで付城だな)
 天海は苦笑いして、自分の構想がくずれ、
影響力が弱められていくことを悟った。