2013年9月18日水曜日

家光の改革

 秀忠という足かせがとれた家光は、滞って
いた政務に自ら手を着けた。
 手始めに、問題のある諸大名は外様だけで
はなく、譜代、旗本といった身内でさえ次々
と改易した。それから幕府組織の再編を行い、
法制度の見直しを始めた。
 このすばやい対応に、誰も反発する隙がな
く、秀忠の陰は一気に消え去った。
 家光は厳しい処罰をする一方、紫衣着用の
勅許の件で配流にした沢庵宗彭、玉室宗珀を
赦免とするなど、処罰の公正にも努めた。
 難問だったのは、甲斐に蟄居している弟、
忠長の処分だった。これを家光は、忠長の所
領としていた駿河、甲斐を没収し、上野・高
崎城に幽閉することに決めた。
 かつて秀忠の弟、松平忠輝も、秀忠との確
執から、伊勢・朝熊山へ配流となり、その後、
飛騨・高山に移った。そして今は、信濃・高
島城に幽閉の身ながら、城主の諏訪頼水には
持て成され、温泉や俳句、茶などを楽しみ、
幕府に刃向かうこともなく、質素な暮らしを
していた。
 家光は、忠長にも忠輝のような生き方を見
つけてほしいと願っていた。それが、幕府を
二分して再び戦乱の世にしない唯一の方策と
考えていた。

 寛永十年(一六三三)

 正月になって間もなく、崇伝が病に倒れ死
んだことが家光に知らされた。
 崇伝は、政務に深くかかわっていたが、こ
の頃はすでに海外との国交がほとんどなくなっ
ていたため、外交文書の起草はそれほど必要
なかった。
 そこで家光は、内政の助言を、権力に媚び
ない沢庵に求めることにした。しかし、沢庵
はこれを辞退した。
 その態度をさらに気に入った家光は、何か
と理由をつけて沢庵を江戸城に呼び出して、
助言を求めるという妥協策にでた。これには
沢庵も従わざるおえなかった。
 沢庵が幕府に深くかかわることを拒んでい
るため、実務は道春にまわってくるようになっ
ていった。
 七月に家光は、上野にある東照宮に参拝し、
寛永寺の天海を訪ねた後、道春の私塾にも初
めて立ち寄った。
 私塾の塾舎は、塾生が三十人ほど入ればいっ
ぱいで、こぢんまりとした建物だった。
 それに比べ、徳川義直が寄進した先聖殿は
立派なもので、家光は孔子像を興味深そうに
眺めた。そして、久しぶりに道春から「書経、
堯典の章」の講義を受けた。
 講義を終えた家光が道春に語りかけた。
「道春、今後は海外からの文物は手に入りに
くくなる。となれば、この国独自で知恵を高
めねばならん。こうした学問所の役割は重要
になってくるであろう。そなたにもおおいに
期待しておる」
 そう言って家光は、白銀五百両を道春に与
えた。それに加え、秀忠が亡くなり、道春の
補佐をすることになった東舟にも時服三領が
与えられた。

 しばらくは家光に逆らう諸大名はいなかっ
たが、秀忠という大きな後ろ盾がなくなり、
相次ぐ改易で不満が芽生え始めていた。
 特に外様大名には動揺があった。
 そこで家光は、外様大名の筆頭にあった加
賀・前田家を後ろ盾とするため、水戸・徳川
頼房の娘、大を家光の養女として、前田利常
の長男、光高に嫁がせることを決めた。
 利常の正室が家光の姉、珠だったこともあ
り、前田家に異存はなかった。
 このことで家光は道春を呼んだ。
「道春、先に私が養女とした大姫と、加賀の
前田光高殿との縁組が成った。そこで、婚礼
の次第書と婚礼記をそなたに書いてもらいた
い」
「ははっ」
 次第書は、婚礼の儀での手順を書いたもの
で、亡くなった崇伝の役目だった。その大役
が道春にまわってきた。
 婚礼の儀は、十二月に盛大に行われ、家光
は一安心していた。ところが、そこに突然、
思わぬ知らせが入った。
 信濃・高島城で弟、忠長が自刃したのだ。