2013年9月19日木曜日

弟の死

 家光はすぐに稲葉正勝を呼び、自刃した経
緯を調べさせた。
 正勝にしても他人事ではなかった。忠長の
側には弟、正利が仕えていたからだ。
 家光はこの時、初めて、忠長の気持ちを見
誤っていたことを悟った。
 道春が家光のもとに駆けつけた時には、力
なくうなだれていた。
「上様……」
「あれには悪いことをした。私のせいです。
私が幼き頃から病弱で、周りからは国松が後
継者と思われておりました。そのため国松は
将軍となるように育てられていたのです。そ
れが、私が将軍になったことで、家臣として
生きなければならなかった。国松はそのよう
なこと思うてもみなかったでしょう。人に従
うということなど国松には出来なかったので
す。どれだけ辛い思いをさせ、傷つけたか。
申し訳ないことをした」
「上様。辛いお気持ちはよく分かります。私
もかつては上に立つ者として、多くの者を死
に追いやりました。今、こうして人に仕える
身になり、その辛さ、苦しさがよく分かりま
す。しかし、だからといって後戻りなど出来
ません。ひとたび家臣となれば、主君に身命
を賭して仕えるのがさだめ。それを忠長殿に
進言しなかった取り巻きこそ、責任は重大で
す」
「道春……」
「さあ、上様。今後はそのような弱気な姿を
家臣に見せてはなりませんぞ。忠長殿に報い
るには、将軍である上様が、天下泰平を磐石
なものにすることです」
 しばらくして、家光は稲葉正勝の報告を聞
き、忠長の取り巻きの家臣らを処罰するよう
命じた。
 この時、正勝の弟、正利は、すでに忠長の
後を追って自刃していた。
 正勝は、その辛さをこらえて後始末に奔走
していたが、突然、体調を崩して血を吐いた。

 寛永十一年(一六三四)

 年が明けて間もなく、春日局は、やつれて
病床にあった正勝の側にいた。
「母上、正利を、助けることが出来ませんで
した。申し訳ありません。父上の、万分の一
も、お役に立てませんでした。申し訳ありま
せん」
「なにを申す。正勝は稲葉家の大功労者です。
私の誇りです。今はゆっくり養生しなさい。
私が必ず病を治します」
「母上、私のことより、上様をお守りくださ
い。上様こそ、ご心痛が深く、孤独になられ
ておるのです。早く、上様を支える者を、見
つけねば」
「分かりました。上様のことは母が守ります。
心配いりません。上様には母の違う弟君がい
らっしゃるのです。そのお方が、上様の支え
となりましょう」
「そうでしたか。よかった。これでゆっくり
眠れます。母上、ありがとうございます」
「そうです。焦らず、ゆっくりと養生するの
ですよ」
 正勝は心地良さそうに眠りについた。それ
から数日後、起き上がることもなく、息を引
き取った。

 この頃、江戸の町は相次ぐ火事に見舞われ、
混乱した年の幕開けとなった。
 家光にとって、もっとも信頼できる正勝の
死は、肉親を失う以上の大きな痛手だった。
 正勝には、嫡男、正則がいたが十一歳とま
だ幼かった。しかし、家光は正勝の忠義に報
いるため、春日局の兄、斉藤利宗を正則の後
見人として、相模・小田原の八万五千石を相
続することを許した。
 春日局は、家光の孤独と落胆した様子を察
して、その支えとなるであろう保科正之に引
き合わせることにした。
 正之は、今は亡き秀忠が密かに心を寄せた
侍女の静に産ませた子で、信濃・高遠藩の藩
主、保科正光の子として養育されていた。
 死を悟った秀忠とは会っていたが、家光に
は隠されていた。
 家光は、義母弟がいることを知るとすぐに
会いに行った。
 七歳下の正之は、家光を主君として迎え、
家光が義母兄だと告げられてもその態度は変
わらなかった。
 父の秀忠を恨むこともなく、まっすぐな性
格に育っていたことに、家光は感心した。そ
してすぐに意気投合した。
 家光は、この強い味方を得たことで気力を
回復し、難題山積の政務に取り組んだ。
 その頃、道春は、自刃した忠長の旧邸から、
その中でも格別大きな屋敷を家光から与えら
れ、私塾の先聖殿近くに移築して、塾生たち
の寮とした。
 六月になって、家光が京に向かうのに道春
も同行した。
 京・二条城に入った家光は、朝廷との関係
改善を願い、公家、諸大名らを招待して盛大
な宴を催した。
 道春はその様子を「寛永甲戌御入洛記」に
まとめた。そして、京都所司代、板倉重宗に
寄せられた訴訟の協議にも加わるなど多忙を
極めた。