2013年9月2日月曜日

天皇と和子

 和子は、婚礼の儀が終わると御殿にこもっ
た。
 気になった後水尾天皇が、和子の側に仕え
る女官に様子を聞くと、源氏物語の絵巻を広
げて見ていると言う。
 天皇は、和子が狩野探幽の書き上げたとい
う二百巻にもおよぶ源氏物語の絵巻を持参し
たことは聞いていた。それをぜひ見たいとも
思っていた。
 望まない入内だとしても、このまま会わな
いわけにもいかない。そこで天皇は御殿に向
かった。
 天皇が御殿に入ると、まばゆい光が目に飛
び込んできた。
 そこにいた和子は、座敷に源氏物語の絵巻
を何巻も無造作に広げ、あどけない顔で見て
いた。
 絵巻は黄金に輝き、和子の顔や座敷にもそ
の輝きが照り返していた。
 天皇が立ち尽くしているのに気づいた和子
は、慌てて平伏した。
「か、和子と申します。不束者にございます
が、幾久しく、よろしくお願い申し上げます」
「見てよろしいですか」
「えっ」
「この絵巻物です」
「あっ、はい。これらは、すべて帝のお品に
ございます。どうぞお改めください」
 天皇は、和子の側に座って、黄金に輝く絵
巻を興味深そうに見た。
 その天皇の横顔を見た和子から、小声が思
わず出た。
「良かった」
「何ですか」
「いえ、申し訳ありません。父上から、帝は
神様だと聞かされていました。私は、不動明
王様のような、怖いお顔の神様だと嫌だなっ
と思っていたのです。それが、お優しそうな
お顔をしておられるので、ほっとしたのです」
「そうですか。神様ですか。しかし、それも
今は名ばかりの神。そなたのお爺様が権現様
におなりになり、影が薄くなりました」
「お爺様は、私にとっては今でもお爺様です。
権現様などと、それこそ名ばかりではありま
せんか」
「ほう、そなたはそのように思われているの
ですか」
「はい。でも、八百万の神と申しますから、
お爺様のような神様がいてもいいのかもしれ
ません」
「そなたのお爺様は、どのようなお方だたの
ですか」
「お爺様は優しい時もあり、怖い時もありま
す。私たちと遊ぶ時はまるで童のようにはしゃ
ぎます」
「ほほう、童のようか」
「はい」
「そなたも、このように沢山の絵巻物を広げ、
まだ、童のようですね」
「ああ、これは、絵を見ていたのです。こう
して次々に絵を見ていくと、まるで平安の世
に行ったみたい。人々が生きているように見
えるのです」
「たしかにこの絵はすばらしい。そなたは、
源氏物語をご存知ですか」
「はい、一通りは聞き知っていますが、難し
くて。なぜ藤壺は、光源氏を受け入れたので
しょうか。光源氏の母なのでしょ」
「母といっても、光源氏を産んだ母ではあり
ません。ひとりの女として光源氏を愛してい
たのでしょう」
「そうでした。でも、藤壺には光源氏の父の
桐壺帝がいらっしゃいました。桐壺帝との間
に愛情はなかったのでしょうか」
「あったと思いますよ。それでも光源氏の、
藤壺を慕う愛情を拒めなかったのだと思いま
す」
「私も藤壺のようになりたい」
「それは……」
 天皇は、和子を哀れに思った。
「そなたには、なんの罪もないのですが、私
は、そなたを受け入れることはできません。
私には好きな人がおり、すでに、子も生して
おります」
「与津子様ですね」
「知っておいででしたか」
「でも帝は、与津子様に愛情がおありだった
のでしょうか」
「もちろん。なぜそのようなことを」
「帝が私を見た時、お優しいお顔をしておら
れました。もし、与津子様に愛情がおありな
ら、今でも私を見れば、お怒りの目で見られ
ると思います」
「……」
「でも、どちらでも良いのです。光源氏も多
くの女と契りを結んでおられますから。私も、
帝がこれから色々な女と契ることを覚悟して
おります。それが、帝の人質となった、私の
運命と思っております」
「人質。そなたは人質などではありません。
どちらかといえば、私のほうが徳川に囚われ、
なにもかも言いなりの人質同然の身です」
「えっ、そうなのですか。でもご心配にはお
よびません。お爺様も幼少の頃、織田、今川
に人質となっておりましたが天下人になりま
した。帝もそのうち……。あっこれは失礼い
たしました。帝はすでに天下人の上におわす
神様にございました」
「あはははは、お爺様はそうでありましたね。
お爺様はどうやって天下人になったのでしょ
う」
「私には分かりかねますが、いつもお爺様は
『大望を果たすには、長生きすることじゃ』
と口癖のように申しておりました」
「長生きですか。どのようにすれば、長生き
できるのでしょう」
「これも、お爺様が申しておりましたことで
すが『質素に暮らし、粗食を心がけて、庶民
の手本とならねばならん』と」
「なるほど」
「それを、美味しそうな御菓子を目の前に置
かれて聞かなければならないのです。大変辛
くございました」
「あはははは、それは辛いでしょうね。はは
は、良いお話をお聞きしました。それでは私
はこれで」
「あの、この絵巻物をお持ちくださいませ」
「いえ、ここに……。ここに度々来て、見さ
せてもらってもよろしいですか」
「はい、もちろん。そう、その時には、私に
公家の作法などお教え願えませんでしょうか」
「よろしいですよ。ではまた」
 天皇は会釈をして去った。その後姿に、和
子はいつまでも平伏していた。