2013年9月21日土曜日

国書争論

 寛永十二年(一六三五)

 林家が江戸で始めての正月を迎えた。
 道春の家族に加え、東舟の家族もそろった。
 東舟は、二人の子をもうけたが、長男は早
くに亡くなり、春斎と同い年の次男、永甫が
儒学を志していた。
 十二歳になった道春の四男、右兵衛は、名
を守勝と改め、三歳の頃にはまだ歩くことが
できず心配していたが、普通の子に育ち、無
邪気に遊んで場を和ませて、この日の主役と
なった。
 三月に対馬藩主、宗義成の家老、柳川調興
から、幕府に訴えがあった。
 それは、義成の父、義智の代から、「幕府
と朝鮮とのやり取りをした国書を改ざんして
いる」というものだった。
 そのことも問題だったが、家臣が主君を訴
えるということも、忠義を重んじる幕府の方
針に逆らうものとして問題になった。そこで、
江戸城に義成と調興を呼んで争論させ、その
上で家光が裁断することになった。
 争論の前日、家光は、主だった重臣と道春
を呼び協議した。
 過去、朝鮮に送った国書は、崇伝が起草し
「日本国源秀忠」あるいは「日本国主」と記
名する慣わしだった。それを義智、義成が「日
本国王源秀忠」「日本国王」と国王の認めた
国書のように改ざんしたのだ。
 家光は、このことについて道春に意見を求
めた。
「国王とは帝であり、朝鮮では、今まで送っ
た国書はすべて帝の言葉、あるいは、徳川家
が帝の家系になったと受け取りましょう。も
し、へりくだった文章を書いていたとすれば、
朝鮮はこの国をさげすんでみているかもしれ
ません。しかし、いまさら訂正するわけには
まいりません」
「宗家が余計なことを」
「上様、お恐れながら、義成殿は亡き父、義
智殿に倣うしかなく、宗家はこの国と朝鮮の
対面を保とうとしたのです。原文の国書のよ
うに国王ではなく国王の家臣からの書簡とし
ていたのでは朝鮮は重要なものとは思わず、
あるいは受け取らなかったかもしれません。
それを考えれば止むを得なかったと思われま
す」
「それは分かる。しかし、今後をどうするか
だ。まあそれは後々のこと。問題は調興だが、
家老とはいえ、これは進言とは言えぬ。己が
主君に取って代わろうとする魂胆が見え透い
ておる。それに、私を甘く見ているようにも
思える。皆はどうじゃ」
 皆、相槌を打ち、調興を処罰することが決
められた。

 次の日

 江戸にいた諸大名が、すべて江戸城の大広
間に集められた。そして、家光の前で、宗義
成と柳川調興がそれぞれの言い分を述べ合っ
た。
 二人が言い尽くしたところで、家光が静か
に話し始めた。
「調興が言うように、宗家のしたことは許さ
れざることだ。しかし、義成は今は亡き父、
義智から引継いで間がなく、『日本国王源秀
忠』『日本国王』と書くことはもはや慣習と
なり、それに従うしかなかったであろう。本
来、義智を正さねばならなかったのは家臣で
ある調興、そなたらではないか。誠の忠義を
はきち違え、己の利のためにその罪を主君に
なすりつけるとは不らちである。よって、義
成を赦免とし、調興と改ざんに直接かかわっ
た者らを罰する。罰は追って沙汰する。以上
じゃ」
 しばらくして、調興は津軽に配流となり、
国書の改ざんに関わった僧侶、規伯玄方は陸
中・南部藩に配流、家老の島川内匠と調興の
家臣、松尾智保は斬罪となった。
 こうした争い事が増え、その処理にあたっ
ていた稲葉正勝が亡くなって以降、家光を煩
わせることが多くなった。また、江戸から離
れた地域の内情を把握する必要があるため、
武家諸法度の見直しをすることになった。
 武家諸法度の見直しは、老中らが集まって
協議し、それをもとに道春が、東舟の協力を
得て起草した。
 以前の、秀忠が崇伝に起草せた十三ヶ条の
武家世法度を、より分かりやすく身近なこと
にも踏み込んだ内容となった。そしてさらに
六ヶ条を増やして十九ヶ条とした。
 新たに加えられたものに、参勤交代がある。
 これまでも、江戸近隣を領地とする諸大名
は頻繁に江戸城に出向き、重臣らに付け届け
をして、家光との絆を深めようと争った。
 家光はその応対をするため政務が遅れた。
 その一方、江戸より遠方を領地とする諸大
名は、なかなか出向くことが出来なかった。
 こうした地域間の格差があり、不公正なも
のとなっていた。また、偏った情報しか入ら
ず、その悪習が表に出たのが対馬の国書改ざ
んだった。
 これを改めるため、諸大名は領地と江戸と
を一年ごとに参勤することにし、頻繁に出向
く大名を遠ざけ、遠方を領地とする大名との
公平を保つことにした。
 これにより、各地の情報を集めることもで
き、大名のいない間、領地の管理を家臣に任
せることで、忠義を試し、不正も見つけやす
くなると考えた。
 参勤交代で負担が増えることも配慮し、供
をする家臣の人数を減らすように戒められた。

 かつて小早川秀秋は、筑前、筑後を領地と
していた時、主な家臣を各地にある諸城の城
主として、普段は秀秋の居城、名島城に集め
て城主間の情報交換をさせ、領地全体の様子
を把握した。そうすることで短所を見つけや
すく、長所を広めやすくした。

 道春は、当時の記憶をたどり、だぶらせて
いた。
 出来上がった武家諸法度は、家光の承認を
得て、六月に、尾張、紀伊、水戸の徳川御三
家と江戸にいた諸大名を江戸城に呼び集め、
大広間で道春に全文を読ませた。
 その後、幕府は、寺社と遠方の藩からの訴
訟を管轄する寺社奉行を設置して、老中、若
年寄、寺社奉行、町奉行、勘定頭などの組織
を再編した。
 家光は、旗本にも武家諸法度よりさらに生
活を規定した旗本諸法度、二十三ヶ条を道春
に起草させた。そして、十二月に旗本全員を
江戸城に呼び集め、大広間で年の瀬の慰労を
した後、この時も道春に旗本諸法度の全文を
読ませた。
 これは、道春のような儒者が僧侶に取って
代わる先駆けになった。
 ようやく幕府の体制が整い、より緻密な政
務が出来るようになった。