2013年9月22日日曜日

家光の苦境

 寛永十三年(一六三六)

 この年は暴風雨から始まった。
 思えば家光の代になって、悪天候により農
作物が育たない年が続いている。そのたびに
家光は質素倹約を呼びかけ、諸大名が自ら、
庶民の手本となるように命じた。また農民に
は、年貢を減らし猶予なども行った。しかし、
それでも間に合わず、幕府の貯蓄米を放出す
る事態となった。
 この頃、銅銭は諸大名が自由に鋳造するこ
とができた。そのため銅銭の価値が下がり、
物の流通にも悪影響が出ていた。それがさら
に庶民の暮らしを悪化させていた。
 そこで家光は、江戸・芝と近江・坂本だけ
で新たな銅銭「寛永通宝」を鋳造し、諸大名
には銅銭の鋳造を禁止して、寛永通宝を買い
取らせることで銅銭の統一を図った。
 またこの年は、日光東照社に家康の遺骸が
久能山から改葬されて二十年にあたることか
ら、その遷宮のため、幕府がすべての費用を
支払って大規模な造り替えを行った。
 これも困窮した庶民の救済となった。
 こうした状況の中、朝鮮から通信使がやっ
て来ることになった。
 これまでは、征夷大将軍が代わったことを
祝賀するために来ていたが、今度は泰平になっ
たことを祝賀するためとの理由だった。
 家光は、先の国書改ざんのこともあったの
で道春を呼んだ。
「上様、通信使の来訪とは、急なことにござ
いますな」
「そうなのだ。対馬の義成が失態を償うため
に取り計らったのだろうが、朝鮮がなぜ来る
気になったのだろうか」
「もしや、明が衰退しておるのと関係がある
かもしれません」
「明の衰退」
「はい、明は、金という新たな国と戦となり、
国力が衰えております。噂では、朝鮮にも金
が圧力をかけておるように聞きます」
「そのようなこと、なぜ、今まで黙っておっ
た」
「申し訳ございません。まだ確かなことが分
かっておらぬゆえ、お耳に入れては政務にさ
しさわりがあると思ったのです」
「まったく、余計な気をまわすでない。とこ
ろで『国王』と改ざんしたことはどうすれば
よい」
「はっ、それにつきましては、今後『大君』
を使うのがよろしいかと」
「大君か」
「はい、大君ならば、朝鮮は国王と同格か、
変更したことで位が上がったと受け取りましょ
う。わが国では、大君とは主君のことであり、
帝をないがしろにしていることにはなりませ
ん」
「おお、それはよい。あとは朝鮮の内情を探
るしかないな」
「ははっ」
 家光は道春と、朝鮮通信使が来た時の対応
方法を練り、準備を進めた。

 朝鮮通信使の一行、四百七十八人は、十二
月に江戸へ到着した。その三使には正使・任
絖、副使・金世濂、従事官・黄カンがなって
いた。
 朝鮮からの国書には、事前に知らせていた
ように「日本国大君殿下」と宛名が記されて
いた。それに対する返書は、すべて道春が起
草した。そして、今は亡き崇伝の後継者となっ
た僧侶、元良が清書した。
 日本の朝鮮への対応は、これまでとは違い
強気だった。
 日本の使節が朝鮮に行った時、堂上の大使
を前に庭で拝礼をしていたので、家光にも朝
鮮通信使が前の庭で拝礼するか、家光が椅子
に座り、その前で拝礼するように求めた。
 これに対し、正使の任絖が「非礼であり、
豊臣秀吉の悪しき治世を思い起こさせる」と
激怒した。
 そこで、家光が譲歩して、これまで通りの
拝礼とした。
 朝鮮通信使を連れて来た対馬藩主、宗義成
は、家光の面目を保とうと、三使に日光東照
社に参拝するように促した。
 朝鮮通信使は、泰平の祝賀での来日であり、
日光東照社がその礎を築いた家康の霊廟だと
いうこともあってこれに応じた。