2013年9月24日火曜日

天草の予言

 寛永十四年(一六三七)

 家光は激務から体調を崩し、病の床につい
て年の初めを迎えた。
 道春は昼夜、家光のもとにあって漢方薬の
書を調べ、薬剤の手配を指示した。
 そのかいあって家光の体調は次第に回復し
ていった。
 そこで、家光は予定していた江戸城・本丸
の改修を諸大名に命じた。
 この年は、そんな波乱の幕開けだったが、
家光には嬉しいことがあった。
 側室にした振が子を身ごもっていたのだ。
 振は、春日局の養女となり、部屋子として
奥御殿に入り、女中奉公をしていた。それを
家光が目に留め、側室としていたのだ。
 三十四歳にして始めての子が誕生すること
に、家光より家臣たちが沸き立った。
 奥御殿のことは、家光に近い家臣でさえ秘
密とされ、側室がいるなど思っても見なかっ
たからだ。
 世間でも家光は、女嫌いと噂されていた。
そのため、家光を女嫌いに育てた春日局が、
奥御殿を取り仕切ることをいぶかしがる者も
いたぐらいだ。

 閏三月

 振は女子を産み、千代と名付けられた。
 嫡男ではなかったことに、家光はがっかり
したが、家臣たちは次に期待が持てると喜ん
でいた。そしてこれを機に、奥御殿は大奥と
して整備されることになった。
 ほとんどの者が、側室となった振が春日局
の養女だとは知らされていなかった。
 家光は、江戸城にあった家康の霊廟を、二
の丸の側に移転するよう命じた。
 するとその場所に、以前から飼っていた、
二羽の鶴が舞い下り、再び東に飛び立った。
 この話を聞いた家光は、吉兆と喜んだ。し
かしそれもつかの間、家光は再び、熱を出し
て寝込んでしまった。
 すぐに道春、東舟が侍医らと協議して、看
病に奔走した。
 こうした中、さらに家光を悩ませる問題が
南で起きていた。

 肥前・島原半島は、異常な天候が長年続き、
凶作に民衆が疲弊していた。
 それにもかかわらず、島原藩主、松倉勝家
が行う年貢の取立てはきびしかった。
 この地には、豊臣秀吉の代からの領主だっ
た有馬晴信の家臣が、今は農民となっていた。
その者たちが、怒りを募らせていた民衆を扇
動して、反乱軍を組織し、藩邸を襲って蜂起
したのだ。
 これを知った肥後・天草諸島でも、秀忠、
家光によって諸大名が改易されたあおりで浪
人となっていた者たちが、民衆を扇動して蜂
起した。この時、総大将を十六歳の益田四郎
とした。
 益田四郎が総大将になったのには、先の元
和二年(一六一六)に国外追放になったママ
コス神父の予言にわけがある。
「いずれ天下に幼子一人が誕生する。その幼
子は習わずして諸学を極めている。やがて幼
子が若者となった頃、天変地異があり、その
若者は民衆とクルスを掲げて立ち上がるだろ
う」
 この予言にあるように異常気象となり、神
童と噂されていた四郎の存在が符合していた
のだ。
 天草の反乱軍は、四郎を「天草四郎」と祭
り上げ、富岡城や本渡城を攻撃した。それも
つかの間、近隣の諸藩から幕府の応援軍が到
着したので撤退した。
 止むを得ず反乱軍は、島原半島に向かい、
島原の反乱軍と合流した。そして、廃城となっ
ていた原城を砦として籠城した。
 これを知った家光は、病の癒えない自分の
代わりに、板倉重昌を反乱の鎮圧に向かわせ
た。
 重昌は、九州の諸大名に原城の包囲を指示
したが、幕府の年貢の取立ての厳しさやキリ
シタン弾圧に同情する大名もあり、気勢はあ
がらなかった。そのため、打つ手がなく時間
を浪費していた。
 なかなか鎮圧したとの知らせがないことに
業を煮やした家光は、老中の松平信網、戸田
氏鉄に加勢するように命じた。
 一部の民衆による反乱が、大坂の合戦以来
の大きな戦になろうとしていた。