2013年9月27日金曜日

火種

 寛永十六年(一六三九)

 この年も凶作の影響が残り、家光は諸大名、
旗本にさらなる倹約を命じた。そして、キリ
シタンに影響力のあったポルトガルとの国交
を禁止して、海に面した諸藩には、不法入港
を監視するように命じた。また、ポルトガル
以外の許可を与えている外国船も、肥前・長
崎を唯一の入港先とした。
 このことで、外国との交易を収入源として
いた諸大名の中には不満と不信感がわき、家
光への信頼が失われてきた。それを払拭する
ため家光は、わずか二歳の長女、千代を尾張・
徳川義直の長男、光義に嫁がせて、義直との
絆を深め、後ろ盾とすることを決めた。
 これには、義直から私塾に先聖殿を寄進さ
れた道春が間をとりもった。
 千代を引き離された振は悲しみにくれ、病
弱だったこともあって寝込むことが多くなっ
た。
 そんな静まりかえった大奥で騒ぎが起きた。
 座敷や廊下の方々に煙がたちこめ、気づい
た女官らが「火事にございます、早くお逃げ
ください。火事にございます」と叫びながら
走り回った。
 煙は台所から上がり、炎は瞬く間に燃え広
がって、江戸城・本丸に飛び火して手がつけ
られない状態となった。
 大火はやがて本丸をすべて燃え尽くして鎮
火した。
 幸い、人への被害はたいしたことはなく、
少し前まで本丸の近くにあった富士見亭御文
庫は、紅葉山に移したばかりで、消失を運良
く免れた。
 家光は、すぐに火消しの制度を強化して、
浅野長直らを奉書火消役の専任とした。
 この頃、各地で火災が相次ぎ、貴重な書物
を預かっている道春としても気がめいる毎日
だった。
 そうした時、道春が以前から親しくしてい
た倉橋至政の娘と三男、春斎の縁談が持ち上
がった。
 倉橋至政の父、政範は御賄奉行をしていた。
 道春は、さっそく亀と相談し、十一月十五
日に婚礼をとり行った。

 寛永十七年(一六四〇)

 家光は、消失した江戸城・本丸が再建され
るまで西の丸に移っていた。
 この年は、家康の二十五回忌にあたるため、
家光は日光東照社に参拝した。これに道春も
同行してこの時の様子を「斎会の記」にまと
めた。
 江戸に戻って来た家光が政務に励んでいる
と、大奥から「寝込んでいた振の容態が悪化
した」との知らせがあった。
 家光がすぐに駆けつけると、振はすでに虫
の息で、昏睡状態のまま、しばらくして亡く
なった。
 家光は愕然とし、振から千代を引き離した
ことを後悔した。しかし、自分の病弱な身体
のことを考えれば、ここで立ち止まってはい
られない。なんとしても後継者を誕生させな
ければとの思いを強くした。
 家光の女の好みを一番よく知っていたのは
春日局で、だからこそ町で見かけた家光好み
の娘を次々と部屋子にして女官に仕立てたの
だ。そして、家光が大奥に来るのにあわせて、
女官をそれとなく目に留まる場所で働かせた。
 亡くなった振もそうして目に留まり側室と
なった一人だった。
 春日局には、家光の後継者を誕生させなけ
ればいけないという使命と、幕府からの期待
が重くのしかかっていた。しかしそれは、春
日局の権力を強めているだけと危惧する者も
いた。
 正室である孝子もそう感じていた。
 孝子は、すでに家光との関係は遠ざかって
いたが、公家である鷹司家の代表として、徳
川家に強い影響力を保つことを唯一の生きる
糧にしていた。また、春日局が公家の三条西
家と縁戚関係にあったことも、さらに対抗意
識を燃え上がらせた。そこで、自分の側に仕
える女官を家光に近づけるように仕向けた。
 これに春日局が口出しすることは出来ず、
いつしか水面下での公家を代理する静かな権
力争いが起こっていた。
 そうとは知らない家光は、好みの女官が目
に留まると、次々に呼んで夜を共にした。