2013年9月29日日曜日

大車輪

 寛永十九年(一六四二)

 これまで続いた凶作は、幕府にとって初め
ての大飢饉となった。
 民衆は田畑を売り、妻や子まで売って、そ
れでも飢えをしのぐことはできなかった。
 各地で餓死者が相次ぎ、さらに状況が悪く
なるという悪循環が起きていた。
 この凶作で、米相場が高騰したのを利用し
て不正を犯す役人や米を買占めて相場を混乱
させる商人が横行した。
 家光は、こうした不正を犯す者を処罰し、
倹約だけの方針を転換して、年貢などの制度
を改め、民衆救済の方策を次々に命じた。
 こうした中にも道春は、諸家系図の作成に
没頭した。
 各地の武家などから集まってきた膨大な家
系図を、崇伝の跡を引き継いだ金地院の僧侶、
元良や道春の私塾に書生として来ていた水戸
の人見卜幽、その甥、辻了的ら数十人が手伝
いに加わった。
 家系図は、徳川氏の一族である松平氏を初
めとして、松平氏が属する清和源氏から平氏、
藤原氏、諸氏、医者および茶道家等といった
順に分類された。
 家系図の中には、戦国の混乱にかこつけて、
名のある武将の家系図に組み入れるなど、偽っ
たと思われるものがあったが、道春はあまり
修正をせず編纂することにした。
 その理由として、早く作成することを優先
したこと。また、詳しく調べる検証方法もな
かったことがある。
 そもそも、徳川氏でさえ藤原氏から清和源
氏に改姓をしているため、偽った者を否定す
ることは出来なかった。そして、道春の中に
も林姓から木下姓、豊臣姓、小早川姓となり、
再び林姓となった複雑な家系で、今の自分が
存在していることを思えば、むしろ偽る者に
同情するほうが強かった。
 心のどこかで自分の存在を主張したかった
のかもしれない。
 作業のこうした粗雑さはあったが、諸家系
図が細かな個人履歴を網羅した、これまでに
ない貴重な記録書となることは間違いなかっ
た。
 道春はこれに加えて「本朝神代帝王系図」
「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」「織田信
長譜」「豊臣秀吉譜」といった、徳川幕府が
成立した以前の系譜を作成するように命じら
れていた。
 そこで道春は、三男、春斎に「本朝神代帝
王系図」「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」
「織田信長譜」を作成させ、十九歳になった
四男、守勝には「豊臣秀吉譜」を作成させる
ことにした。
 二人は道春に指導を受けながら、この年の
二月には書き上げることが出来た。
 その成果から、次に家光から命じられた「中
朝帝王譜」の作成では、春斎に上古から魏、
呉、蜀の三国時代を担当させ、守勝に晋朝か
ら明朝までを担当させて作成を任せた。
 二人の息子は道春の期待に応え、八月には
それらを完成させた。