2013年9月3日火曜日

道春の凶事

 この年の十一月、道春は江戸にいて、亡く
なった藤原惺窩が遺した文書を「惺窩文集」
として刊行する準備や漢文の「朱子詩集伝」
を和訳する仕事に専念していた。
 そこに京から「次男の長吉が天然痘を患い
死んだ」との知らせが届いた。
 それからすぐ、亡くなった長吉が招いてい
るかのように道春の身体に腫物ができた。
 道春は幕府に暇を請い、京の自宅に戻ると、
長男、叔勝と三男、吉松も天然痘にかかって
やつれていた。
 それでも、亀の献身的な看病と亀の父、荒
川宗意の力添えにより快方に向かっていた。
「旦那様、長吉が……」
 道春の顔を見て、気丈に振舞っていた亀の
気が緩み、涙がとめどなく流れた。
 道春は、亀にかけてやる言葉が見つからず、
そっと抱きしめることしかできなかった。
 宗意が慰めるように言った。
「長吉が、叔勝と吉松を守ってくれたのだ。
これだけで治まったことを良しとせねばな」
 道春の目にも涙が溢れた。
「すまない。皆、すまなかった。日頃、偉そ
うに言っている私が、薬草や医術の書を読ん
でいるこの私が、いざという時に何もしてや
れなかった。ふがいない父を叱ってくれ」
 宗意が、うなだれて肩を落とした道春に言っ
た。
「道春殿、自分を責めてはなりません。あな
たはもっと大切な仕事をされているのです。
この世を良い方向に導く、誰にも成しえない
大仕事です。家に目を向けていては成し遂げ
られるものではありません。そうでなければ、
長吉の死は悲しいだけではありませんか」
 亀も涙をぬぐっていった。
「旦那様、私はもう大丈夫です。長吉のため
にも落ち込んでなどいられません。旦那様も
仕事にお戻りください。子らが尊敬する旦那
様でいてもらわなければ」
「亀。そうだな。皆に報いるには、もっともっ
と良い世にしなければな。父上、亀のこと、
よろしくお願いいたします」
「分かりました。ご存分に働きなさい」
 道春は長吉を弔うと、すぐにやりかけにし
ていた「朱子詩集伝」の和訳を終わらせた。

 元和七年(一六二一)

 春になって、道春の身体にできていた腫物
が小さくなると、養生を兼ねて摂州、紀州を
巡り、有馬温泉で湯治した。そして、この旅
を記した「摂州有馬温湯記」や鎌倉時代に吉
田兼好が書した随筆「徒然草」を注解した「野
槌」を著作した。

 秀忠は、後水尾天皇に和子が気に入られて
いることを知るとほっとした。
 残る使命は、天下泰平を磐石なものとして、
前年に十七歳で元服して竹千代から名を改め
た家光に引き渡すことだけだった。しかし、
その家光との関係がうまくいかない。
 久しぶりに呼んだ道春に、そのことをふと
もらした。
「どうやら和子は帝とうまくやっているよう
だ。近く、竹千代にも公家の姫を貰い受ける
つもりなのだが、福が言うには、竹千代は女
に興味を示さんらしい。父上は竹千代を世継
ぎにと決めたが、やはり国松のほうが良かっ
たのではないだろうか」
「若様は今まで、お福殿以外は男ばかりの中
でお育ちになったのです。そのお福殿も男勝
りなところがあり、おなごの色香をご存知な
いのですから無理もありません。まずは、お
なごを見る機会を多くして、しばらくご様子
をご覧になってはどうでしょうか」
「ふむ、世話のやけることじゃ。それから、
竹千代は、今わしがしておる、キリシタンへ
の処断を快く思うておらん。わしがどんな思
いで処断しておるのか、まったく分かってお
らん」
「それも、若様は戦のことを話でお聞きになっ
ているだけで、その惨状はお目にされたこと
がないからでしょう。それより、政務にご興
味をお示しになられたことを良しとなさいま
せ」
「そうかのう。あれが何を考えているのか、
わしにはさっぱり分からん。道春、そなたは
これから度々、竹千代に会って、その心意を
探ってほしい。それによっては世継ぎも見直
さねば」
「はっ、よくよくお聞きしてまいりますので、
しばらくお時間をいただきとうございます」
「頼むぞ」