2013年9月30日月曜日

贈物

 寛永二十年(一六四三)

 大飢饉の真っ只中、朝鮮通信使の一行、四
百七十七人が、家光の嫡男、竹千代の誕生を
祝賀するためにやって来た。
 こうした理由でやって来るのには、明の崩
壊と金から国号を改めた清に、朝鮮も服属し
て政情不安になっていたことがある。
 それに比べ日本は、大飢饉で疲弊している
にもかかわらず、安定した政権を維持してい
ることから、その政治力に頼り、交流を深め
て後ろ盾にしようとする態度が明確だった。
 この時の三使は、正使・尹順之、副使・趙
絅、従事官・申濡だった。
 三使は家光に謁見して、竹千代誕生の祝辞
を書いた朝鮮国王、李宗の国書を渡した。
 それに対する返書を道春が起草して、元良
が清書した。
 その後、三使は日光東照社に参拝するなど
恒例になりつつあった行事を行った。
 今までと違っていたのは、三使が道春に贈
物を持って来ていたことだ。それは、前回やっ
て来た朝鮮通信使の話から、道春は鋭い質問
をする手強い人物だということが朝鮮政府に
知れ渡り、家光への影響力があると思われて
いたからだ。
 今回も、道春がどんな質問をしてくるか、
三使は恐れていた。しかし、道春は諸家系図
の作成が大詰めの時でもあり、それほどたい
した質問はしなかった。それを三使は、贈物
のおかげと勘違いして安心した。そのため、
春斎、守勝などとも和やかに交流して帰って
いった。

 八月になって、春斎に長男が誕生した。
 道春にとって初めての孫は、我が子とは違
う喜びがあった。
 諸家系図の作成も一通り終わって九月に入っ
た頃、明正天皇が譲位するという話しがあっ
た。
 家光から道春と春斎は、京に向かう酒井忠
勝、松平信綱に副使として同行するよう命じ
られた。
 後水尾天皇は突然、譲位して徳川家の血を
継ぐ、わずか七歳の長女、興子を明正天皇と
した。そして、後水尾上皇となって院政をお
こなっていた。
 明正天皇は、誰かに嫁ぐことも許されず、
子はいなかった。
 秀忠がいなくなり、大飢饉の世情不安を好
機とばかりに後水尾上皇は、明正天皇に譲位
させ、徳川家の血を排除する念願を果たそう
としていたのだ。
 家光には、これを阻止する気はなく、朝廷
との関係を改善して大飢饉を乗り切ることだ
けを考えていた。
 後継の天皇は、後水尾上皇と藤原光子の間
に生まれた第四皇子、紹仁と決まった。その
紹仁は、和子が養育しているので、徳川家の
影響力が完全になくなるわけではなかった。
 紹仁はまだ十歳で、粗暴なところはあった
が、学問が好きで、道春の師である藤原惺窩
の儒学を特に好んだ。そのため、副使の役目
を命じられた道春らに難題はなく、譲位の準
備を淡々とこなせばよい気楽な務めだった。

 道春が京に行っている間に、江戸では春日
局が死の床についていた。
 側では家光と孫の稲葉正則が必死の看病を
していた。
 春日局は稲葉正成に嫁ぎ、一時は主君、小
早川秀詮のもとを離れて没落しかけたが、そ
こから秀忠の正室、江与の懐妊と、その後の
嫡男、家光の誕生という幸運に恵まれた。
 やがて家光の乳母として、征夷大将軍にな
るのを助けた。そして長男、正勝の嫡男、正
則を相模・小田原の八万五千石の領主にする
こともできた。
 春日局自身も大奥を取り仕切るまでになっ
たのである。
 女性としては、豊臣秀吉に匹敵する大出世
だろう。
 今、お楽が家光の嫡男、竹千代を産むのを
見届け、その満足感に浸るように笑みを浮か
べて静かに息を引き取った。