2013年9月4日水曜日

家光

 家光は、江戸城・西の丸の庭に出て、兵法
師範となった柳生宗矩に剣術の手ほどきを受
けていた。
 道春が廊下を歩いている姿に気づくと、家
光は廊下に腰かけて笑顔を見せた。
「道春先生、お久しぶりですね」
 道春は家光の側に正座して一礼した。
「若様、私は少々病んでおりまして、お目に
かかることができませんでした。元服、おめ
でとうございます。ご挨拶が遅れまして申し
訳ありません」
「そうだったのですか。でも元気そうで、な
によりです。ああ、こちらは、私に剣術など
を指南していただくことになった柳生宗矩先
生です」
「お初にお目にかかります、柳生宗矩です。
道春先生には兄が大変お世話になりました」
「道春です。お世話になったのは私の方です。
宗章殿はお元気ですか」
「それが、すでに亡くなってございます」

 宗矩の兄、宗章は、常に小早川秀秋の側に
あり、関ヶ原の合戦では秀秋の警護にあたっ
た。その後の小早川家がお家断絶になった翌
年、米子藩に迎えられた。ところが、藩主の
中村一忠が、家老の横田村詮を誅殺する事件
に巻き込まれ、謀反を起した横田家側に加わっ
て奮戦するも討ち死にした。

「そうでしたか」
 家光が意外そうに聞いた。
「道春先生は、宗矩先生のお兄様をご存知だっ
たのですか」
「はい。それはもう武勇に優れた好漢でした」
「そうでしたか。柳生家はご兄弟そろってす
ごいのですね」
 宗矩は兄に思いをはせるように言った。
「私より兄の方が数段上にございました」
 三人がしんみりしているところに福が現れ
た。
 道春の目には、福が一段と気品高く、落ち
着いて見えた。
「これは、お懐かしいお方がおいでですこと。
竹千代様、早く汗をお拭きになって、お着物
を着替えてくださいませ」
「あい、分かりました。道春先生のお相手を
お願いいたします」
 家光は着物を着替えるために座敷に向かっ
た。その後ろから宗矩が付き添った。
 道春と福は、家光の姿が見えなくなるのを
見届けて、別の座敷に入った。
「道春様、こちらにあまりお顔が見えません
でしたので心配しておりました」
「色々ありまして。それより、正成殿は今、
越後におられます。松平忠昌様の側近となり、
糸魚川で二万石の大名となられました。忠昌
様は、常陸・下妻の三万石から移封を重ねら
れ、わずか四年で越後・高田の二十五万石へ
と目覚しいご出世。その陰には正成殿のお力
があったのでしょう」
「そうですか。いつもお気にかけていただき、
ありがとうございます。私も正勝も元気にし
ております。正利も国松様によく仕えて、元
気でいるようです」
「それは良かった。正成殿にお会いする機会
がありましたら伝えましょう。しかし、今日
は若様の今後のことで少々、難題がありまし
て……」
 その時、足音がして家光の姿が見えた。
「お待たせしました」
 着物を着替え終わった家光が座敷に入って
座った。
「父上が私について、何か言っておりました
か」
「竹千代様、福は下がっております」
 福が下がろうとするのを道春が止めた。
「いえ、お福殿にも聞いておいていただきた
いのです。若様、よろしいでしょうか」
「もちろんです。福、そのままでよい」
「はい」
 道春は率直に話し始めた。
「今日、こちらに参りましたのは、若様がお
なごに興味をお示しにならないという噂があ
り、そのお心をお聞きしたいと思ったからで
す」
「いきなりそのようなこと、先生には関係の
ないことでしょう」
「私は先頃、子を一人、亡くしました。残る
二人の子も危うく死なせるところでした。そ
れで思ったのです。私が死んだ時、私がこれ
までしてきたことが全て失われ、後世に何も
遺らないのではないかと。もちろん、私のよ
うな者にどれほど遺す価値があることをして
きたか。しかし、私のような者でもそう考え
るのです。まして若様は、権現様が築かれた
天下泰平の世を後世に伝える天命がございま
す。それをなんとお考えなのか。若様と一緒
に学んだ私や、若様をここまで育てられたお
福殿には、知っておく必要があると思ったの
です」
「そうですか。先生のお子が亡くなったので
すか。さぞお辛いことでしょう。私はなにも
子を儲けたくないと思っているのではないの
です。父上は、私に公家の姫を嫁がせようと
無理強いしています。それが嫌なのです。私
は、帝が和子を嫌がっていたのが分かるので
す」
「しかし、今は帝も和子様を快く思っておら
れるご様子です。人は会ってみなければ、そ
の良し悪しは分からぬものではないでしょう
か」
「それはそうですが、私は民の心が離れるの
が心配なのです」
「民の心」