2013年9月6日金曜日

将軍、家光

 道春は、家光と会ったことを報告するため
秀忠のもとに向かった。
「どうであった竹千代は」
「しばらくお会いせぬ間に凛々しくなられて、
お話をお伺いしていますと、まるで権現様と
いるように感じました」
「父上と」
「はい。権現様も、よく上様のことを心配し
ておられましたが、若様も上様のことをこと
のほか心配されているようです。もちろん、
上様がどのようなお気持ちかは若様には分か
りませんから、的外れな心配ではあるのです
が、子は子なりに考えるものなのです」
「わしのことより、自分の行く末を心配すれ
ばよいものを」
「それもよくお考えになられているように思
われます。かつて、平家は公家のような暮ら
しをし、民の貧しい暮らしをかえりみようと
もしませんでした。そのため源氏に味方する
者が増えたのです。今の上様のなさりようが
それに似ておるのではないかと。若様は民の
立場になって考えておられるようです。これ
は権現様もそうでした」
「わしのやり方が間違っていると申すのか」
「いえ、そうではありません。一方に偏って
はならないということです。公家のことも大
事なら民のことも大事。キリシタンを処断す
るのならキリシタンでない民は安楽にする。
中庸ということです。すでに上様と若様が役
割分担をする時期にきているのではないでしょ
うか」
「竹千代に、その器があると申すか」
「よくよく若様とお話になられてはどうでしょ
うか。きっと上様のお心に通じる若様となら
れていることに気づかれると思います」
「そうであろうか。まあ、考えておこう」
 秀忠は、しばらくして家光に会った。そし
て、政務についてもお互いによく話をするよ
うになった。
 家光も秀忠の考えをよく聞き、その意志に
そうように努めた。

 元和八年(一六二二)

 長崎では、キリシタンの大量処刑が実行さ
れ、キリシタンではない民衆の間にも、秀忠
への不満と暮らしへの不安が広がった。
 そうした中で突然、秀忠は、家光に征夷大
将軍の座を譲ることを決めた。

 元和九年(一六二三)

 家光は、六月に京・伏見城に秀忠と向かっ
た。そして、二人は七月に後水尾天皇と和子
に対面し、家光は征夷大将軍の宣下を受けた。
 天皇は、秀忠に対する怒りが冷めてはいな
かったが、心が打ち解けた和子の手前、気持
ちをあらわにすることはなかった。
 しばらくして秀忠、家光は江戸に戻った。
 大御所となった秀忠は、江戸城の本丸を出
て西の丸に移り、家光が西の丸から本丸へと
入れ替わった。しかし、政務の実権は依然と
して秀忠にあり、家康の大御所政治を継承し
ていた。
 民衆は、若い将軍、家光に新しい時代への
期待を感じたが、その陰で、秀忠のキリシタ
ン弾圧は本格的になっていった。
 この頃、京から前の関白、鷹司信房の娘、
孝子が家光の正室となるため、江戸城、亜の
丸に入った。
 孝子の正式な輿入れは十二月と決められて
いた。
 その一方で、福は本丸の奥御殿を取り仕切
る役目を命じられ、正室の女中になる娘を武
家や町人から集めた。そして自らも、密かに
町人の娘を自分の部屋子として集めていた。

 福の躍進とは対照的に、稲葉正成には試練
が待ち構えていた。
 正成が仕えている松平忠昌の兄、忠直は、
以前から素行の悪さを秀忠に目をつけられて
いた。
 秀忠は、少しでも家光の邪魔になる者は身
内でも許さないという見せしめもあり、忠直
を配流にした。そして領地を忠昌に移封とす
る命が下った。
 その領地は越前・北ノ庄だった。
 北ノ庄は、かつて豊臣秀吉に抵抗していた
柴田勝家が所領とし、合戦の結果、北ノ庄城
で織田信長の妹、お市の方と自刃した。その
後にあった慶長の朝鮮出兵で、総大将として
戦った小早川秀秋が、戦功を挙げたにもかか
わらず秀吉の怒りをかい、筑前から国替えさ
せられたという因縁の地だった。
 忠昌にとっては、越後・高田の二十五万石
から五十万石への大きな飛躍だった。しかし
正成としては、雪深いへき地への左遷としか
思えなかった。
 もしや自分が秀秋の家臣であったことや、
忠昌の所領をわずか四年で増大させたことに、
秀忠が脅威を感じ、江戸から遠ざけようとし
ているのではないかと不安に思った。
 正成は意を決して、忠昌のもとに出向いた。
「正成、浮かぬ顔をしておるが、どうした」
「はっ、こたびの国替え、私は喜べませぬ」
「なぜだ」
「北ノ庄は、石高加増とは申せ、その地は雪
深く、江戸から遠ざけられております。また、
このように度々国替えさせられるのは、殿の
お力をそぐのが狙いではないかと」
「それは正成のかんぐりだ。上様は、私の力
を認めておられる。だからこその国替えと私
は思っておる。それに、かつて権現様も秀吉
公より、荒地だった江戸を賜り、今のような
繁栄の都を築かれた。私も北ノ庄をそのよう
にしてみたい」
「そのお考え、ご立派にございます。私は恥
ずかしい。さもしい疑念を抱くような私が、
殿のお側にいることで災いとなっては、死し
ても償うことはできません。どうかお暇をい
ただきたく、お願い申し上げます」
「それはならん。正成がいてこその私ではな
いか」
「もったいなきお言葉にございます。すでに
私などいなくても、殿は立派に成し遂げられ
ましょう。私はそれを遠くで見守っておりま
す」
 忠昌は強く説得したが、正成の意思は固く、
閉居し、忠昌が北ノ庄に旅立つのを見送った。