2013年9月13日金曜日

皇子の死

 突然、家光が疱瘡を患い、福が懸命な看病
をしている頃、京では、深刻な事態が起きて
いた。
 後水尾天皇と和子の間に産まれた高仁親王
が急死したのだ。その後、九月になって産ま
れた男子もすぐに亡くなった。
 秀忠の落胆は大きく、それにも増して怒り
が沸々とわいてきた。
 皇子が立て続けに亡くなったことに、朝廷
の陰謀と疑う幕府に、今度は天皇が激怒し、
再び譲位する決意をした。

 寛永六年(一六二九)

 病の癒えた家光は、朝廷が幕府から疑われ
て弱気になっているこの時とばかりに、紫衣
着用の勅許の件で幕府に抗議文を出した沢庵
宗彭、玉室宗珀、江月宗玩を処罰するため呼
び出した。
 それを知った天皇は、幕府に譲位する意思
を伝え、沢庵らの処罰無効を訴えた。
 天皇の意向を無視するかのように幕府は処
罰の協議をおこなった。
 崇伝は重い刑罰にするよう主張した。これ
に対して天海は、刑罰としては重いが死は免
れる配流とするように主張した。
 その結果、沢庵宗彭は出羽・上ノ山に配流。
玉室宗伯は陸奥・棚倉に配流。江月宗玩は放
免と決まった。
 この決定は、天皇にも屈しない幕府の姿勢
を示した一方、沢庵、玉室に新しい地での布
教を促すことになり、朝廷から遠ざけるだけ
にとどめたものだ。
 天皇は、譲位する意思は固かったものの、
和子がまた身ごもったことで、幕府の朝廷へ
の圧力が薄れたため、譲位は子の誕生を待っ
てからとなった。
 八月に和子が産んだ子は、女子だった。
 産まれた子が男子でなければ、仮に和子の
産んだ女子が天皇になったとしても、いずれ
徳川家の血縁が排除されてしまう。
 秀忠はなおも諦めきれず、幾度となく苦難
を跳ね返した強運の福を和子のもとに送り、
男子誕生の望みを託した。
 無位無官の福は、公家の三条西家の猶子と
して天皇に拝謁することになり、この時、春
日の号を賜わった。
 こうして福は春日局として京、御所へ向かっ
た。
 天皇は、決して春日局を喜んで迎えたので
はなく、秀忠の強引なやり方に、表向きは従
うように振舞い、密かに譲位の準備を進めて
いた。

 これより先、道春に悲痛な出来事が立て続
けに起こった。
 六月に、小早川秀詮を長男、信勝として受
け入れてくれた東舟の父、林信時が老衰で逝
き、その数日後に、後継者として頼もしく見
守っていた道春の長男、叔勝が病死したのだ。
 江戸で叔勝の葬儀を済ませると、すぐに京
に向かい、すでに信時の葬儀を済ませて泣き
つぶれていた東舟を励ました。
 その京では、御所に入った春日局が和子に
会い、体調を気づかった。しかし、和子は不
満をあらわにした。
「福。我が子を亡くして悲嘆にくれておられ
た帝に対して疑いをもつなど、むごいなさり
よう。これは父上がされているのですか、兄
上がされているのですか」
「お怒りはごもっともにございます。しかし、
大御所様のお嘆きもご理解ください。あまり
の落胆に混乱されていたのです。上様は病に
お倒れになり、大御所様をお止め出来なかっ
たのです」
「そのような言い訳。もう私にはどうするこ
とも出来ません。せめて帝を自由にしてさし
あげたい」
「そのことで私は参ったのです。どうか、帝
に会えるようにお取り計らいください」
 春日局の意外な応えに、和子は一るの望み
を託すことにした。