2013年9月7日土曜日

家光の側近

 征夷大将軍、家光のもとに集められた側近
には、家康の代から駿府の勘定頭として幕府
の財政政策を受け持ち、天領の管理などもし
て、今も大きな影響力のある松平正綱。
 江戸の勘定頭として財政政策、天領の管理
をし、佐渡奉行をしている伊丹康勝。
 家光の兵法師範となった柳生宗矩。
 関ヶ原の合戦以来、家康から信頼され、秀
忠にも重用されている高力忠房。
 家康が側室とした町人の娘、茶阿に産ませ
た子、松平忠輝の養育をした皆川広照。なお、
広照は家康の代に家老にまでなったが、秀忠
により、忠輝が伊勢・朝熊山へ配流となった
時、養父として責任をとらされ改易されてい
た。今は高齢のため江戸城に登城する時には
輿に乗ることを許された。
 家康、秀忠に仕え、二度目の大坂の合戦で
は、大坂城を大砲で攻めて戦果を挙げ、今は
御書院番頭をしている牧野信成。
 家康が改葬された日光東照社の造営を奉行
し、その後、秀忠に小姓組番頭として仕えて
いる秋元泰朝。
 京都所司代だった板倉勝重の次男で、妻が
稲葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にある板
倉重昌。
 江戸町奉行の堀直之と加賀爪忠澄は、二人
で月番交代の務めをしている。その直之の役
宅が、呉服橋にあったので北町奉行と呼ばれ、
忠澄の役宅が、常盤橋にあったので南町奉行
と呼ばれていた。
 そして、毛利秀元もいた。
 秀元は、毛利輝元の養子となり、慶長の朝
鮮出兵では右軍の総大将をつとめ、関ヶ原の
合戦では南宮山に吉川広家、安国寺恵瓊らと
共に布陣した。その後、長門の長府藩主とな
り、本家の幼い秀就を補佐して徳川勢として
大坂の合戦にも参戦した。
 この時、豊臣勢として参戦した毛利勝永は、
秀頼に忠義を貫いたということで真田幸村と
共に英雄扱いされ、徳川の世となっても語り
草になっていた。そのため、秀元が幕府から
疎まれることはなく、家光の側近となること
ができたのである。
 やがて道春も呼ばれ、側近の一人としてそ
の真価が問われる時がきた。
 道春が家光のもとに出向くと、老中となっ
た稲葉正成の長男、正勝も座っていた。
 正勝は、家光に幼い頃から仕えていたため、
兄のように頼られ、父、正成にも劣らない聡
明さで激務をこなしていた。
 道春は正勝に軽く会釈して、家光に平伏し
た。
「こたび上様におかれましては、征夷大将軍
への補任、おめでとうございます」
「ふむ。これからも先生にはお知恵を拝借し
たい。よろしくお願いいたします」
「ははっ。上様、どうか道春とお呼びになり、
何なりとご命じください」
「まだ慣れません。そのうちに。ところで、
私は将軍になったとはいえ、当面は父上がな
にごともなさるであろう。天海の申すには、
父上のまつりごとは陰。だから私には陽のま
つりごとをするようにと。そこで、権現様を
お祀りしている日光の東照社を新しくしよう
と思う」
「お恐れながら、上様。東照社はまだ出来て
間がないと思いますが」
「分かっています。権現様が小堂でよいと言
い残されたことも知っております。しかし今、
民はこの世がどうなるのかを案じて、不安を
抱えています。それを少しでも和らげ、良き
世になることを示さねばなりません」
「それが上様の陽のまつりごとなのですね」
「そうです。ですから先生にも、かつて社寺
を復興された時のお知恵を拝借したいのです」
「そのことは」
「福が正勝によく話をしていたそうです。備
前でのことを」
「そうでしたか。しかし、私は家臣に任せて
いただけのこと。そちらにおられます正勝殿
の父、正成殿のような良い家臣に恵まれてい
ただけです」
「ということじゃ、正勝。そなたにはまた仕
事が増えるが、天海と相談してよろしく頼む」
「ははっ」
「私も微力ながら、お力になれることがあり
ましたら、精一杯、勤めさせていただきます。
正勝殿、どうかよろしく、お願い申し上げま
す」
「それは心強い。こちらこそ、お願い申し上
げます」
 その後、家光の命により、各地から名だた
る匠が日光に集められ、東照社のかつてない
規模な改築が始まった。