2013年9月8日日曜日

貿易の暗雲

 秀忠のもとには残念な知らせが入っていた。

 元和九年(一六二三)十一月十九日

 後水尾天皇と和子の間に初めての子が誕生
したが、女子だった。
「興子と名づけたか。わしも長い間、男子に
恵まれなかった。和子もその血をひいたか。
まぁよい。とにかく帝とは仲良うしとるのだ
から」
 秀忠はそう言って自分を慰めていた。そし
て、キリシタンの弾圧に精力を注いだ。
 その弾圧は日増しに強くなり、貿易にも影
響していた。
 平戸のイギリス商館が閉鎖したのだ。
 イギリス商館は、先に開設していたオラン
ダ商館に関わった三浦按針ことウイリアム・
アダムスが、その開設にも尽力していた。そ
のアダムスは、三年前に病で亡くなっていた。
 閉鎖した表向きの理由は、オランダ商館が
安価な商品を取り扱っていたのに対し、イギ
リス商館は高価な商品を取り扱っていたので、
キリシタン弾圧の余波で売買が減り、閉鎖す
ることになったということだが、多額の売掛
金を残しての閉鎖は、幕府の圧力があったと
誰の目にも明らかだった。
 オランダ商館は、布教活動をしないという
約束を幕府と交わし、かろうじて残ったが、
その行動は次第に制限されていった。
 思えば、アダムスが乗っていた東インド貿
易の船、リーフデ号が日本に漂流して来たこ
とで、関ヶ原の合戦が始まり、戦の姿を大き
く変え、二度の大坂の合戦では、必要以上に
多くの人を殺す過大な兵器が外国からもたら
された。それを今、キリシタンの弾圧という
形で消滅させようとしている。
 元号が変わった寛永元年(一六二四)には、
マニラから日本にやって来たスペインの商船
に、宣教師が隠れて乗っていたことが分かり、
幕府はスペイン船の来航を禁止した。
 その一方、家光が征夷大将軍になったこと
を祝賀するためにやって来た朝鮮通信使、三
百名を受け入れた。
 家光は、江戸で朝鮮通信使と対面して良好
な関係を保った。
 道春も朝鮮通信使への書簡を起草する崇伝
の手伝いをした。また、その合間に副使の姜
弘重が、春秋館の学士ということを聞き、道
春が問答を行って、日本の学問が優ってきて
いることを実感した。
 道春が江戸にいる間、京の自宅で四男が誕
生した。
 亀は、次男の長吉が病死した傷心も癒え、
育児に専念した。
 しばらくして、道春から届いた手紙に亀の
身体をいたわり、子の様子を気にかける言葉
と共に「子の名は右兵衛」と書いてあった。