2013年10月3日木曜日

損益

 正保二年(一六四五)

 大飢饉も峠を越し、民衆の暮らしも少しず
つ落ち着きを取り戻していた。しかし、家光
はなおも取締りを強化し、治安の維持と凶作
への備えを命じた。
 四月に、竹千代が元服して家綱と名を改め、
わずか五歳で正二位となった。これにともなっ
て、朝廷から東照大権現に宮号が与えられ、
日光東照社から日光東照宮となった。
 道春は六月に体調を崩し、もっぱら春斎が
道春の代わりをそつなく務めた。この働きで
春斎は、法眼の位を授けられた。
 法眼は、法印につぐ僧侶の位で道春の民部
卿法印と同じように、儒学者としてはまだ認
められていなかった。

 正保三年(一六四六)

 一月八日に、家光の側室、玉が四男となる
徳松を産んだ。
 玉は、春日局の跡を引き継ぎ大奥を取り仕
切っている万が、まだ伊勢・慶光院の院主を
していた頃から万に仕え、その後、春日局の
部屋子となっていた。
 万にとっては心強い味方の大手柄だった。
 幕府は、こうも違う側室から次々に男子が
産まれると世継ぎ問題になるのではないかと
不安がよぎった。
 それをよそに家光は、正月早々からめでた
いと喜んだ。
 道春は、まだ病が癒えず、床についての正
月となった。それを心配した松平信綱や酒井
忠勝が度々見舞いに訪れ、信綱の連れて来た
侍医数人の治療により、徐々に回復していっ
た。
 家光は、道春の病も心配だったが、兵法師
範の柳生宗矩が深刻な病となり、京の医者、
武田道安を呼ぶなどして治療にあらゆる手を
尽くした。しかしその甲斐もなく、三月にこ
の世を去った。

 八月

 肥前・長崎に、明の使者を名乗る黄微蘭、
陳必勝の二人が書簡を持ってやって来た。そ
の書簡はすぐに家光に届けられた。
 書簡に書かれていたのは、明の鄭芝竜から
の援軍要請だった。
 鄭芝竜は、以前、海賊だったが日本に帰順
して明と日本の貿易を仲立ちしていた。
 明はすでに滅んでいたが、鄭芝竜は皇帝と
逃れ、まだ抵抗運動をしているというのだ。
 家光は重臣を呼び、病の癒えた道春も呼ば
れた。
 援軍要請の対応を何度か協議したが結論が
出ず、徳川御三家のうち、紀伊・頼宣と水戸・
頼房も加わっての協議となった。
 家光は大飢饉を乗り切って自信をつけ、さ
らに復興を早めるために、援軍要請を大義名
分にして、明を再興させることで属国にする
いい機会と考えていた。しかし、豊臣秀吉が
朝鮮出兵を失敗していることが、これを慎重
にさせていた。
 唯一、この時のことを知っている道春は、
老いた声で冷静に損益を話した。
「もし出兵して清に勝利し、明の復興がなれ
ば、多大な利益になりましょう。しかし、そ
うなるまでにはかなりの時を要します。敗北
すれば、清だけではなく、朝鮮とも交易は出
来なくなるかもしれません。出兵しなければ、
清との友好を築き、交易が出来るようになる
かもしれません。仮に、清がこの国に攻めて
くるとしても、それまでにはまだ時があり、
防備を固めることは容易いと思われます。こ
うして考えると、出兵して得られる利益は運
任せ。出兵しなければ、その利益はこちらの
知恵任せとなります。今は、朝鮮との関係を
保ち、清がこの国に反感を抱かぬようにする
ことが大事と思います」
 こうした協議の最中、鄭芝竜が清に降伏し
たという知らせが届いたため、援軍の派遣は
中止となった。