2013年10月4日金曜日

疑惑の死

 秋になって十七歳になった道春の娘、振が、
亀の弟、荒川宗竹の子、宗長に嫁ぐことにな
り、振は京に旅立った。
 春斎は、東舟が住んでいた旧宅を貰いうけ
ることになった。
 守勝は、父や兄と同じように幕府に仕官す
ることになった。しかし、これまで守勝は髪
を切っておらず、仕官にも気が進まなかった。
「父上、私は今のまま、儒学を極めとうござ
います。仕官など、私の性に合いませぬ」
「それは分かっておる。できることなら、お
前の好きなようにさせてやりたい。しかし、
今はまだ天下泰平が磐石とは言えぬ。いつ動
乱が起きるか分からぬでは、お前の儒学を極
めたいという道も断たれよう。それを心配し
ての仕官なのじゃ」
 亀も心配そうに話した。
「父も母もいつまでお前を見守ってやれるか
わかりません。そなただけが気がかりなので
す。親孝行をすると思って、聞き分けてくれ
ぬか」
「そのように言われると嫌とは申せません。
しかし、父上や兄上のようになれるとは到底、
思えません。どうか過大な期待はおやめくだ
さい」
「分かった。分かった。よう決断してくれた。
それだけでわしは嬉しいぞ」
 道春と亀はほっとして喜んだ。そしてすぐ
に守勝を剃髪し、春徳という号を与えた。
 十二月末に、春徳は初めて江戸城に登城し、
家光に拝謁した。

 正保四年(一六四七)

 道春は、江戸城にほとんど登城することは
なくなり、子らが一人前になったので、近い
うちに春斎が東舟の住んでいた旧宅に引っ越
すのを機会に、自分の蔵書を分配して隠居す
ることにした。
 蔵書の中から、春斎には千部余り、春徳に
は七百部余りを分け与え、残りは春斎の子に
いずれ与えるようにと春斎に持って行かせた。

 その頃、大奥では家光の次男、亀松がわず
か四歳で死んだことで、色々な憶測が飛び交っ
ていた。
 正室、孝子にとって亀松がいたのでは、仮
に長男、家綱に子ができないとしても、自分
の影響力がある側室、夏の三男、長松に将軍
の座が巡ってくるのは程遠い。
 そこで孝子が亀松を暗殺したというのだ。
 当然、孝子は否定し、逆に春日局の後任と
なった万の謀略と非難合戦になっていた。
 これに家光は激怒し、亀松は病死として片
付けた。
 この後、側室の里佐が五男、鶴松を産んだ
ことで争いは治まっていった。
 里佐は、孝子の侍女として大奥に入り、家
光の側室となった。

 この年には、江戸で大地震があり、江戸城
の石垣や大名屋敷が倒壊するなどの被害が出
た。

 正保五年(一六四八)

 この年の二月に、元号が慶安と改められた。

 大奥の孝子派と万派の対立は、前年に産ま
れた鶴松の早世によって、再び慌ただしくなっ
た。
 孝子派の里佐が産んだ鶴松の死を万派は自
作自演と主張した。
「孝子が、次男、亀松の死を自分たちの仕業
ではないと思わせるために、あえて鶴松を暗
殺し、窮地にある三男、長松に将軍になる権
利を取り戻そうとしている」
 すると孝子派は万派の陰謀と主張した。
「万派は孝子が亀松を暗殺したと思っている。
その報復として鶴松を暗殺し、その上、孝子
を罪に落とし入れようとしている」
 こうしてどちらも言い訳や作り話の応酬を
して争いが深刻になっていった。
 これに対して家光は、主だった者を集めて
宣言した。
「すでにわしは家綱を世継ぎと決めておる。
その後のことは家綱が決めること。これ以上
争うのであれば、この後の世継ぎは御三家か
ら選ぶことにする」
 これには誰も異論を唱える者は出ず、よう
やく対立は治まった。
 このことがあって、大奥の組織化が一段と
進み、正室と側室が無用な対立を起さないよ
うに、産まれた子の育て方が取り決められて
いった。