2013年10月8日火曜日

時の移り変わり

 承応二年(一六五三)四月

 春斎は、家光の三回忌に酒井忠勝の供をし
て日光山に登った。
 それより遅れて道春は、八月になって春徳、
人見友元らと共に登り、家光の霊廟を参拝し
た。
 道春は、老いた自分よりも若い家光が先に
逝くなど、想像もしていなかった。
 道春はしばらく拝んだ後、生前の家光を想
い、感慨深げにつぶやいた。
「権現様は、自然の理によって天下を治めら
れたが上様は、自然に苦しめられましたなぁ。
しかし、こうして天下は治まり、お若い家綱
様を良い家臣が補佐して、難局を乗り切って
おりますぞ。これは上様が基礎をしっかりと
築かれたおかげにございます。どうかこれか
らも天下泰平の世をお守りください」
 道春はまた、しばらく家光の霊廟を拝み続
けた。そして、名残惜しそうに日光山を下り
ると、下野の足利学校などを巡って江戸に戻っ
た。

 承応三年(一六五四)四月

 春徳に待望の長男、勝澄が産まれた。その
喜びを打ち消すかのように、しばらくして妻
の吉が亡くなり、春徳の子、一男二女は、道
春が引取り養育することになった。
 九月に、後光明天皇が病のため二十二歳の
若さで身まかられた。
 天皇が病にかかった時、この年に産まれた
ばかりの弟、識仁親王を養子に迎えていたが、
このような事態になるとは想像していなかっ
た。そこで、識仁親王が成長するまでの間、
やはり弟の花町宮が天皇に即位することになっ
た。
 花町宮は、十一月に即位し、後西天皇となっ
た。

 承応四年(一六五五年)

 年が明けてすぐに亀が病に倒れた。
 道春の代わりに春斎、春徳があらゆる手を
尽くして看病した。また、京から娘、振が子
を連れて駆けつけ、振の夫、荒川宗長と亀の
弟、荒川宗竹(宗長の父)も見舞いに駆けつ
けた。
 亀は気丈に振舞おうとしたが、病状は思わ
しくなかった。

 四月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「明暦」と決められた。
 家綱を補佐する体制は、保科正之のもとで
次第に統率がとれるようになってきた。
 溢れていた浪人の居場所も確保されて落ち
着き、武力での取り締まりは減っていった。
 それに代わって、法制度に従うように教育
する必要があり、学問が振興されたので、林
家と私塾の役割はさらに重要になった。
 道春は、幕府から書庫にうってつけの火災
に強い倉のような建物を賜り、神田の本宅に
移築することにした。これで私塾まで行くこ
となく、亀の看病をしながら勉学に励めるよ
うになったと喜んだ。

 十月には、家綱が征夷大将軍になったこと
を祝賀するため、朝鮮通信使、四百八十五人
が江戸に到着した。その三使には、正使・趙
コウ、副使・愈トウ、従事官・南龍翼がなっ
ていた。
 道春と春斎が、朝鮮から家綱に送られた朝
鮮国王、孝宗の国書を読みに江戸城に登城し
た時、三使は道春と会見した。
 三使は、江戸に来る途中の大坂で、道春が
書いた「五花堂記」を読んで感激したと褒め
称え、これまで多数の著書を出していること
に敬意を表した。
 その態度に、朝鮮では道春をよほど恐れて
いることが伺えた。
 道春は、三使に春斎を紹介し、跡継ぎであ
ることを伝えた。
 朝鮮国王からの国書への返書は、道春が起
草した。これと一緒に送られる保科正之、阿
部忠秋、井伊直孝、酒井忠勝、酒井忠清、松
平信綱の書簡は、春斎と春徳が分担して起草
した。
 その後、道春は春斎、春徳、春信を連れて、
三使の滞在している本誓寺に度々出向き、詩
などを交わして友好を深め、林家への評価を
高めることに努めた。
 三使にとっても、林家が幕府の窓口になれ
ば交渉がやり易い。
 こうしてお互いの利害が一致して成果を上
げることができ、三使はひと安心した。
 数日後、朝鮮通信使は名残を惜しみながら
戻っていった。
 道春らは、大役を務めたことで褒美が与え
られ、亀の容態に不安はあったが充実した一
年を終えた。