2013年10月5日土曜日

喜びと哀しみ

 ようやく大飢饉からの復興が進み、気がつ
くとまた、庶民の暮らしが派出になり始めて
いた。
 そこで家光は、質素倹約を徹底するように
取締りを強化した。

 慶安二年(一六四九)

 道春は隠居したといっても、重要な訴訟の
裁断には立会った。そして、それにもとづく
法度の施行にも加わった。
 そうしたなに不自由なく落ち着いた生活を
している中、六月になって木下長嘯子の死が
知らされた。
 道春は、長嘯子の風にたなびく草のような
生き方をうらやましく思っていた。
 戦国乱世に武士でありながら力はなく、豊
臣秀吉の縁者として命令されるがままに戦に
参加した。しかし、恨まれることもなく、家
康が天下を取れば、あっさりと武士を辞め歌
人となった。
 あえて質素な生活をしながら和歌や詩を作
り、大名や名立たる文人と交流して、歌仙と
まであだ名される一時代を築いた。
 そのおかげで道春もここまで生き延びられ
たと感謝していた。
 長嘯子は、歌人として影響力のある存在に
なっても、最後まで偉ぶることはなく野にあ
り、潔く去っていった。
 道春は、悲しみよりも清々しく感じていた。
(今ごろ兄上は、好きだった福に恋の歌でも
作っておるのだろう)
 長嘯子が多く作った恋の歌は、福(春日局)
に宛てたものだということは、道春以外に気
づく者はいなかった。

 しばらくして、春斎に長女、久が産まれ、
亀は初めての女子に喜んだ。
 十月になると、幕府に明の鄭成功が再び、
援軍の要請をしてきた。
 鄭成功は、父、鄭芝竜と日本女性との間に
産まれた。
 鄭芝竜が清に降伏した時、逃亡して今まで
反攻する機会をうかがっていたのだ。
 幕府には、もはや鄭成功の要請に応じる気
はなかった。だからといって、日本の血をひ
く者をあからさまに拒否して、もし清に影響
力を持つようになれば不利益になると考え、
日本からの物資を積み出すことは黙認した。
 この後、鄭成功がどうなったかは誰も知ら
なかったが、日本は朝鮮を介して清との交易
をすることになった。

 慶安三年(一六五〇)

 道春の四男、春徳は、予定していた「本朝
編年録」の文武天皇から桓武天皇までの起草
を終えて、その先の宇多天皇までをさらに起
草した。これを合わせた四十巻を家光に献上
した。
 道春は、立派に務めをこなした春徳に所帯
を持たせようと、以前から親交のあった水戸
の徳川光圀のもとに仕えていた伊藤友玄の娘
との縁談を春徳に話した。
「父上、私はまだまだ未熟者にございます。
妻をめとるなど、まだ早うございます」
「なにを申す。お前はもう二十七にもなる。
遅いぐらいじゃ」
「歳は関係ありません。人としてどうかとい
うことです」
「お前はもう立派に務めをこなしておる。妻
をめとれば、さらに力を発揮できるというも
のじゃ」
 納得しない春徳に亀が口を挟んだ。
「守勝。お相手はご立派な家柄の娘さんです。
こんな良いお話はまたとありませんよ。人と
の出会いというのは大切にしなければなりま
せん。私も良い出会いをしたから、お前とい
う立派な子宝に恵まれたのです。お前が所帯
を持ってくれたら、父も母も思い残すことは
ありません。お受けするか断るかは、会って
みてからでもよいのではないですか」
 会えば断れなくなることは、春徳には分かっ
ていたが、渋々承諾した。
 それから間もなく、春徳と伊藤友玄の娘と
の婚礼が行われた。
 八月には、春斎に次女、七が産まれ、二重
の喜びととなった。