2013年10月6日日曜日

家光の死

 慶安四年(一六五一)二月

 所帯を持つことを拒んでいた春徳だったが、
長女、菊松が産まれ父親となった。
 それを知った徳川光圀から詩を賜るなど、
道春を喜ばせた。だが、その喜びもつかの間、
四月に家光が病に倒れ、後のことを重臣に託
して、静かに息を引取った。
 家光の後を追って、堀田正盛、阿部重次ら
が殉死した。
 家光から後を託された酒井忠勝、内藤忠重、
松平信綱、松平乗寿、永井尚政、阿部忠秋ら
は、家光の遺言に従い、十一歳の家綱を将軍
として、その補佐役に家光の異母弟、保科正
之を迎えることにした。
 これにともなって大奥がなくなり、側室ら
は出家した。そして、大半の女官も去っていっ
た。しかし、春日局の跡を引き継いだ万は留
まったので、家光の正室、孝子が強い権力を
握ることはできなかった。
 家光の遺骸は、上野の東叡山・寛永寺に移
され、葬儀が行われた後、五月六日に日光山・
輪王寺に葬られた。
 数日後、道春は江戸城に呼ばれた。そして、
酒井忠勝らと家光の追号について協議してい
た。そこに、京都所司代の板倉重宗から、家
光の埋葬が行われた同じ日に後水尾上皇が出
家したという知らせが入った。
 世間の誰もが、家光の死を悼んでの出家と
考えたが、後水尾上皇は徳川家を良く思って
いなかったことから道春は、これはありえな
いと思った。
 忠勝は道春に意見を求めた。
「上皇は、譲位なされた時も、誰にもお告げ
にならなかった。こたびも、周りの者は知ら
されておらぬということは不可解にございま
す。これは、幕府の言いなりにならぬという
だけではなく、いずれ混乱が起きる。それを
見越しての行いではないでしょうか」
「では、この機に乗じて何者かが騒動を起す
ということでしょうか」
「そうかもしれません。その時に上皇は『あ
ずかり知らぬ』ということにされるおつもり
かもしれません」
 忠勝が懸念していることを話した。
「今、巷には諸大名が改易などをされ、多く
の浪人が溢れ、治安が悪くなっております。
これらの者が徒党を組んで騒動を起せば、幕
府はもちこたえられぬかもしれません。早速、
監視を強化いたします」
「それが良いと思います」

 五月十七日に道春らは、日光山・輪王寺で
贈官位の式を行い、家光は大猷院となった。
 七月に入って道春は、三河・刈谷藩主の松
平定政に誘われて、その邸宅に出向いた。
 定政は家康の異父弟、松平定勝の子である。
 邸宅にはすでに、奏者番・増山正利、大番
頭・中根正成、大目付・宮城和甫(まさより)、
作事奉行・牧野成常、町奉行・石谷貞清といっ
た幕府の重責にある面々がいた。
 定政は、皆を一通りもてなして落ち着いた
ところで話し始めた。
「各々方に申したいことがある。わしは亡き
上様に多大なる恩を受けた。この後は、家綱
様に心を尽くして仕えたいと思っておる。し
かし、家綱様を補佐する者らを見るにつけ、
これでは遅かれ早かれ騒乱となるであろうと
察する。このこと、補佐する者らに伝えても
らいたい」
 そう言って、用意していた封書を差し出し
た。
 その封書は、井伊直孝、阿部忠秋宛になっ
ていた。
 この後、定政は、すぐに長男、定知を連れ
て、上野の東叡山・最教院に入り、剃髪して
出家した。そして、号を能登入道と名乗り、
僧侶の姿で江戸市中に物乞いに出て、大声で
叫んだ。
「松平能登入道に、物給え、物給え」
 それを聞いた者は、すぐに三河・刈谷藩主
の松平定政だと分かり、大騒ぎとなった。
 やがて幕府の知るところとなり、定政を捕
らえると、狂人扱いにして改易した。
 定政の奇行は、主君が改易されたことで、
居場所を失っていた浪人たちを刺激し、幕府
への不満が一気に高まった。その中心となっ
たのが、由井正雪の開いた軍学塾「張孔堂」
だった。