2013年10月9日水曜日

終焉

 明暦二年(一六五六)

 一時は快方に向かっていた亀の容態が日増
しに悪化して、三月二日に息を引き取った。
 先立たれた道春の悲しみは深すぎた。その
ため、葬儀は春斎が喪主となり、亀の生前の
遺言により儒教の葬礼で行われた。そして、
上野の別邸の庭に葬られた。
 しばらくして、亀の看病で江戸に留まって
いた振らが京に戻った。
 道春は、春徳の家族と共に暮らしてはいた
が、亀という大きな存在がいなくなって、心
なしか広く静かになった邸宅で悲しみは増し
ていった。
 時々、春斎の家族がやって来て賑やかにな
ると、次第にもとの道春にかえり、前にも増
して勉学に打ち込んだ。そして八月には、十
四歳になった春斎の長男、春信と一緒に、江
戸城に登城して家綱に拝謁した。
 家綱もこの時はまだ十六歳で、春信とはあ
まり歳が離れていなかったこともあり、話し
相手が出来たことを喜んだ。しかし、補佐役
の保科正之は、家綱が高い教養を身につけ、
学問により天下を治める武士の手本としたかっ
た。そこで十二月に、あえて隠居の道春を呼
び、家綱に「大学」の講義をするよう命じた。
そして、道春の補佐をよくこなしている春徳
には、法眼の位を授けた。

 明暦三年(一六五七)

 江戸城で毎年恒例となった元旦の祝賀に道
春は、春斎と、この時初めての春徳を伴って
登城して家綱に拝謁した。
 こうして儒学者の親子三人が高い地位につ
くことは、清や朝鮮の歴史上でも稀で、蘇東
坡親子三人が老蘇、大蘇、小蘇と称されたの
に倣い、林家の親子三人は老林、仲林、叔林
と称された。
 三人の儒学者の知性あふれる姿により祝賀
を盛り上げることができ、道春にとって誇ら
しい日となった。
 この元旦の夜、江戸・四谷竹町のあたりで
火事が起き、その後も各地で火事が多発した。

 一月十七日に、家綱が紅葉山の東照宮に参
拝するのに道春も供をした。
 その夜、道春は疲れからか気分がすぐれな
かった。

 一月十八日

 今度は江戸・本郷で火の手があがり、町中
に広がった。この時、春斎の邸宅も類焼して
家屋は焼けたが、幸い書庫は焼け残った。
 一旦火の勢いは治まったが次の日、小石川
で再び火の手が上がった。
 これが大火となり、大名屋敷を焼き尽くし、
江戸城の本丸、二の丸までも焼き尽くした。
そして道春の神田にある本宅にも飛び火した。
この時、道春は本宅で「梁書」を読んでいた。
 炎は瞬く間に家屋を飲み込み、もうろうと
した道春は、この梁書一冊だけを持って外に
出た。
 そこに春徳が駆けつけた。
 さらに炎は、新たに移築した書庫にも向かっ
ていた。この書庫は耐火性に優れている倉の
ような建物で、火災には強いはずだが、炎は
容赦なく書庫にも燃え移ろうとしていた。
 道春の使用人らが、慌てて書庫に向かおう
としたが、春徳が叫んでそれを止めた。
「書物を持ち出してはならん。書庫は幕府か
ら火災に強いと言われ賜ったもの。その書庫
から書物を取り出したとあれば、幕府を信用
しておらぬことになる。必ず書物は残る。お
前たちが無理をして無駄死にしてはならん」
 春徳は、梁書一冊を握り締め気を失いかけ
た道春を、使用人の用意した輿に乗せ、上野
の別宅に逃げ延びた。
 この大火は、二十日になってようやく鎮火
した。その被害は、数万人にもおよぶ死者を
出し、後に「明暦の大火」と呼ばれた。
 すぐに春徳は、本宅の様子を見回って戻り、
道春に書庫が全焼し、書物もすべて焼けたこ
とを告げて悔し涙を流した。
「そうか、何もかも、すべて失ったか。しか
し、お前の判断は正しかった。ようやってく
れた」
 書物は春斎や春徳にも分け与えていたので、
すべてを失ったわけではないが、それでも道
春の落胆はひどく、火災の影響もあって、重
い病に倒れた。そして、一月二十三日に静か
に息を引き取った。

 道春の葬儀は、二十九日に儒教の葬礼で質
素に行われ、上野の別宅にある亀の眠る墓の
側に葬られた。

 水戸の徳川光圀は、道春の遺志を継ぐかの
ように、二月から「大日本史」の編集を始め
た。

 道春は幕府に対して、それほどの存在感は
なかった。しかし、春斎が道春の跡を継ぎ、
しばらくして、幕府から束髪を命じられた。
 これは、儒学者として幕府に仕官すること
を認められた証で、春斎は「大学頭」と称さ
れるようになり、道春を林家の始祖として、
その功績を世に広め、春徳と共に儒学を官学
とする道筋をつくった。

 こうして徳川幕府の本格的な治世が始まっ
た。

                      終わり